コトバはひとり歩きしない。いつもぼくらと一緒にいるから。
コトバは子どもだ。無邪気に他人を傷つけ、無邪気に優しくしてくれる。
コトバは道具だ。使うヒト次第で凶器に変わる、それはまるで包丁のように。

包丁は枯れる。トマトや豆腐も切れない包丁では、年老いた鉄にすぎない。
包丁は孤独だ。近づくものを切っていく、傷なしでは向き合えない。
包丁は仲介人だ。命をきざんでは、次の命へとつなげてく。

仲介人は器用だ。ひとりの気持ちだけでなく、もうひとりの気持ちまで理解する。
仲介人はお人よしだ。ひとりのことだけでなく、もうひとりのことまで考える。
仲介人はコトバだ。ヒトとヒトをつなげ、世界を支え続ける。

コトバは支えだ。ヒトも、ぼくも、世界も。
これまでも、これからも。
ずっと、ずっと


∞今日のひとこぴ∞

ナイフで切ったように、夏が終わる。
物覚えの悪いわたくしですが、3才頃の記憶が鮮明に残っていたり、また断片的ではありますが、物心ついてからの記憶があったり、と不思議にもなぜか頭から離れないものがございます。

それらを例えるならば、まるで浴室の扉の隙間深くにこびりつくカビ。なかなかタワシでこすっても落ちない、そんなふてぶてしいようなある意味、貫禄すら漂うカビのヌシに例えられます。カビになりたての新米カビはすぐに落ちるけれど、永年こびりついているカビヌシは、年相応というかそれなりの不気味な黒光りしていたり、そうたやすくは落ちません。

受験のときに必要な数式や公式などはすぐに忘れてしまう、まるで水をかけるだけで流れてしまうような脆弱な結合のカビと同じく。いっぽうで、しぶといカビヌシのように頭にこびりつくもの、どうでもいいことは覚えていたりします。ほんと、どうでもいいことなんですけれど…、そこには懐かしさのようなものを感じるのです。なんといいましょうか、記憶というか、思い出。しかしながら、思い出とはどこか違うように思えるのは、頭に具体的なイメージを浮かべることができることなのかもしれません。

そのなかのひとつに、ちょうどドジョウすくいのザルのような、青いソリに乗って芝生のスキー場を滑っているシーンがあります。確かこれが3才頃の記憶ですが、しかし肝心の楽しかったのか、怖かったのか、といった感情的な部分は思い出せないのです。だから「思い出」ではなく「思い出せない」……。わたしに何が起こったのか、なぜ記憶しているのか、この部分が解明できれば、もっと記憶力も上がるだろうになぁ、とつくづく思うのです。脳は奇なり。


∞今日のひとこぴ∞

僕がいる。ありがとう。
どうも僕という人間は、他人さまに下手な干渉をしてしまう癖があるようでいかん、遺憾。特に笑顔のステキな女性が側にいては、余計に力が入ってしまうのでしょうか。
否定するつもりでも格好つけるつもりでも決してないのですが、意味もなく何のメリットもなくまた悪びれることもなく、道徳的・倫理的な観点からの発言をしているようで、やはり相手の鼻につくのでしょう、多くの場合が徐々に議論の熱が上がっていくのです、お互いに~。

それは恐らく僕の場合、軟派な男から、ステキな笑顔を守らなきゃ、という屈折した責任感の現れでしょうが、屈折さえしなければ単なるモテたい願望にすぎないのでしょうね。
初めのうちは、お互いの意見を真摯に聞き入れながら発言の機会を覗っていた2人も、気がつけば自分の発言が絶対に正しいのだと言わんばかりに、同じ言葉の一点張り。
人のよさそうだったその表情からは笑顔がなくなり、現れた表情が本来の顔と思ってしまうような、説得力と勢いと醜さが感じられ、恐れおののく僕を尻目に、同じ言葉を繰り返します。

それが魅力なのか、僕のほうが醜くなっているのか(否、相手の肩書きのせいだ!…違うかっ!)。
女性のステキな笑顔は、争いから手を引くことで、スキのない笑顔に変わって、相手に興味が向いてしまうのです、いつも~。


∞今日のひとこぴ∞

言葉がヘタだから。
わたしがカオス用語と呼ぶもののひとつに、「いい加減」がある。「カオス(混沌)」とは、カオス理論で定義される予測不可能な複雑な様子を示す現象で、数値解析を用いることで予測した振る舞いの未来および過去を知ることができるが、数値解析の過程で出る誤差のために予測が 事実上不可能ということを証明している…。と、小難しい話はおいておいて、「いい加減」が、どのように「いい加減」なのか、使用するシチュエーションを思い浮かべてみると分かりやすいはずだ。

たとえば、ゲームばかりやっていると「いい加減にしなさい」と母が言う。この言葉の相手は、もちろん子ども。「いい加減にする」のは子どもであり、「いい加減さ」がないから、こう言われるのである。

しかし、こ ういう考え方もあるだろう、「いい加減にしなさい」は、「いい加減なひと」に向かって言う言葉でもある。子どもに「いい加減さ」が伺えるので、「いい加減にしなさい」と言う場合。実にカオス、全く分かりにくし。

それでは、「いい加減なひと」とは、どのようなひとだろうか。「いい加減なひと」を言い換えると、「『い い加減でないひと』でないひと」だろう。そして、「いい加減でないひと」の印象では、マジメ、誠実、几帳 面などの若干ネガティブではないけれども、やや硬い感じがする。そういう硬さを感じないひとが「いい加減 なひと」と言えるのではないだろうか。

つまり、「柔らかさを感じるひと」、「柔軟性を感じるひと」、「いい柔軟性のあるひと」と言えるかもしれない。「いい加減にしなさい」は「いい柔軟性を持ちなさい」、とい うことは、この場合「ゲームばかりに夢中になってないで、ほかにやることあるでしょ」という意味なのかも しれない。

う~ん、頭のなかがカオス。


∞今日のひとこぴ∞

父母が、年をとっていた。
わたしの知らないうちに。

(児島令子)
わたしにとって、いちばん遠い言葉かもしれない。裏を返せばいちばん必要な言葉、ではあるけれども…。なぜなら保守的な人には到底理解できない言葉、車の来ない赤信号でさえなかなか渡れないわたし、かなり保守的。青から黄色になり赤になり、たとえ立ち尽くすわたしを残して周りの人たちが歩み続けたとしていようとも。信号機の意味を、安全の意味を認識しているつもりでも、まるで理解をしていないのだ。立ち止まる意味は何なのか、歩き続ける意味はなんなのか。物事の筋について考えるという思考回路がつながっていないかのように、考えないことが自然なことのように、自分のなかの答えはひとつに収束している。

この思考回路の構築に、やはり育った環境が大きな影響を与えたはずだ。そう、いま思い返せば昔から両親の教えはいつも「法律で禁止されているから」だった。中学、高校と同じ理由で友人宅にステイすることすら許されない。「なぜダメなの?」と聞けば「校則で禁止されているから」とオカン。言い返す言葉も見つからず、そんな親に周りの友人を例に出しても無意味だった。もちろん週明けに友人たちは、お泊りの話で盛りあがる。優しい友人たちは決まって「来て欲しかったなあ」と言ってくれる。けれど、当日の様子を楽しそうに話す友人たちが羨ましかった。そして、その話を共有できないことが悔しかった。

おそらく、その頃からだろうか、自分の気持ちをあまり人に話さなくなった。大げさではあるけれど「地球の大きさに比べれば、自分の気持ちなんてちっぽけなものだから」と、自分に言い聞かせながら過ごしていたと思う。次第に、その思考が習慣化してきたようで、自分の気持ちというものが分からなくなっていた。いわゆる優柔不断の心境ではあるのだが、少し違うような気もする。精神面における優柔不断とでも言うべきだろうか、どちらを買うか迷うときに、どちらが自分に必要なものかを迷う、といった立派なものではなく、たとえば、目標の大学があって、目指しているとする。そのために勉強をするか、しないかで迷う。おかしな話、目標ならば「なにがなんでも」勉強する必要があるのに。考える視点はさらにずれて、なぜ目標としているのかと、根本的なところに立ち返り頭のなかをぐるぐる回っていた。生産性のない思考のめぐり。

決まりごとに従うだけでは、何を楽しみに生きていけばいいのか、そんなことを考えはじめたのはひとり暮らしを始めて3年目、確か今日のように寒い冬だった。こんな日は、つい足りないものを想像してしまう。温かいスープを飲みたい、恋人が欲しい、楽しいことが近くに転がってないだろうか。そんなわたし、人生3度目の「なにがなんでも」やり遂げる時期に達している。1度目は高校受験、2度目は大学受験、3度目は大学受験、4度目は就職活動…、5度目であった、そうだった。転職活動である。生きていく上で転職は必要のないことかもしれない。就職しているわけだから、そこで頑張るという選択肢だってある。

けれども、人生の半分以上の時間を費やすのが、仕事だ。今のところ楽しみのない自分には、せめてやりがいのある仕事に就く必要があるのだ。だから、前に進まなければならない。自分の気持ちが素直なうちに。「ナニが軟でも」やらねばならぬときは、きっと来るのだから……。


∞今日のひとこぴ∞

せんせい。
にんげんは
なんのために
いきてるんですか。

(大曲康之)
先日、貸した本が友人から返ってきました。そのとき言われた一言が、ずっと心に引っかかっています。貸した本は、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』。渡す前に感想をいくつか伝えました。「薬をやってないとこんなに詳しく書けないんじゃないかな」、「読んでたら、気持ち悪くなったよ」、「五感すべてが揺さぶられた感じだった」、恐らく、そういったニュアンスだったかと思います。

これまでに本と向き合う習慣や趣向のなかったぼくにとって、現職である出版の世界はお門違いなのかもしれませんが、本を読む習慣が身につくきっかけとなったことは確かです。感想は好みの違いこそあれ、人それぞれの色があるでしょう、けれど深い感想を述べるには、それだけの読書量や、それに匹敵する経験が必要であると思います。

一方で、友人の感想はこうでした。「確かに、過激で、表現はグロいけど、客観的に描かれているので、さらっと読めた」。これです、自分に足りないものは。というのも、さまざまな表現を吸収していない限りは、たどり着かない感想です。あまりに大きい感性の差に、いや、自分の程度の低さに失禁、もとい失望してしまいました。不本意ではありますが、プライドだけは高いぼくですので、感情が顔に現れていたのでしょうか、友人は「感情移入するのも、特技じゃないかな」とフォローしてくれました。本心から言ってくれたとしたら、もっと嬉しいものです。

ところで、感情移入をしているのかどうかって、自分ではなかなか知りえないところですよね。天才が自分を普通と言い張るかのように、感情移入なんてしていない、だってできないもん、とだけ言っておきます。


∞今日のひとこぴ∞

一冊、同じ本読んでいれば、
会話することができると思うの。

(仲畑貴志)
見たことも来たこともない。初めて通る場所も初めて対面する人までも頭は知っている。記憶がある。まるで地元にいるような感覚。夢とはいつもそんなものだ。当たり前のようにそこにいて、会話をしているあかの他人を親友だと理解し、物語の途中から参加しているはずなのに、最初からこの場にいたという実感。夢の世界を本当は現実世界だった、とよく例えられるが、それもおかしな話しではないとわかる。これまでのあらすじも連想されるように記憶と光景がみごとにシンクロしているのだから。

気がつけば女の家に向かっていた。名前も顔も覚えていないが2、3人の、“おそらく”友達と一緒だった。肝心なところはいつも抜けているのがぼくの夢の特徴だ。しかし手が動かないという、女の特徴は知っていた。家に向かっていたのは、遊びに行く、というよりも急いで何かを確認するためだということも。内容はよく知らないけれど『20世紀少年』に出てくる男のように、不吉な災いの訪れを明らかにするため旧友から真相を聞きまわる心境に近かったと思う。

ぼくたちは急いでいた。何もなければいいんだけど…不安を抱えたまま坂道を走った。そのとき疲れなんて不安に比べたら小さな存在なのだということを知った。坂を上りきった先にゆらゆらとあがる陽炎。奥にはうっすら建物が見えている。見覚えはないけれど、どこか懐かしいボロ・アパートだ。

坂をのぼりきると、脚はぱんぱんに張っていて、額から首にかけては汗が噴きだしている。もちろん服はびしょびしょなのだが、なぜか長そでシャツを着ていた。アパートは一見すると5、6階建てのようだった。外観は台形であわいグリーン色の不思議な印象。ぼくらはエントランスで共有の郵便ポストで彼女の部屋を確認し、エレベーターには乗らず、らせん階段を駆けあがった。アパートの3階、階段すぐ側に彼女の部屋はあった。

そして呼び鈴を鳴らす。


∞今日のひとこぴ∞

疲れている人は、いい人だ。
(岡部正奏)
あぁ外はとても寒く
でもこの程度で寒いだなんて
南のほうで育ったから仕方ないと
弱い自分に言い聞かせながら
ふと思った
熊になりたい 強い熊になりたい
急流を力強く昇る鮭の群れも
爪を突き立て片手でさっと陸に上げてしまう
そんな屈強な熊だったらよかったな
全身毛だらけあったかそうなんて考えたり
でもどうせなら寒さに強い熊がいい
どんなに凍てつく寒さにも負けない熊
熊らしいクマ
あぁ北極グマだったらな


∞今日のひとこぴ∞

今日しかないと思えば、言えるかなぁ「あなたが好きです。」
周りのやつらが脱皮を繰り返し成虫に変わっていく。

ぼくはずっとサナギのままで見守っているつもりだ。

またひとつ幼いころからの親友が羽ばたいていった。

もう何年もこうしていると目の代わりに心で見える。

古い皮を脱ぎすてると新しい薄色の肌が現わになる。

新しく脱皮をするのは傷ついたからだと知っている。

誰かと触れてくことが外で羽ばたくことが怖いのか。

脱ぎ棄てた皮の下には美しい羽根があるというのに。

今日もひとりサナギのままで誰かを見守りつづける。

痛みのない殻のなかで平穏だけが心地よいと信じて。

静かに息を吸い静かに息を吐きながら心で外を見る。

またひとつ皮を脱ぎ棄ててソラヘ羽ばたいていった。


∞今日のひとこぴ∞

木が放つ匂いは 木の言葉なんだ
わたしの見解では、オーラルなサービスを提供することで有名なPink-Salonだ。

これはリーズナブルで通いやすい(?)ことから、さまざまな男性に親しまれている飲食業だ。表向きは。
そんな親しみとは逆に苛酷さの可能性を踏まえ、働いている嬢の立場から考えてみたのが下記。

安く時間が短いため回転が速いことから、稼ぐにはたくさんの相手をする必要になる。そしてどのような人に対しても笑顔で、ふだん食べ物が入るところに水分やミネラルが分解される蛇口を含むのである。つまり飲食するのは嬢なのだ。それは他のサービスやAdult-Videoなどに比べても苛酷なのではないだろうか。

というのも他のサービスは時間の関係上、相手をする人数が限られることやサービスする上でのアイテム・テクニックは各々による。Adult-Videoに関しては登場する男女が同じ職場にいて共通の仕事をしているということから多少は働きやすい環境であるということにつながるのではないか、と。

そう言ったものの細かい裏話などはどこにでもあるのだろうが…。

口は災いの元というが、業猥の元でもある。とそういうことなのである。口…ほんと苛酷。