日頃から自分の身の回りの日本人の言動を観察していて、ふと思った事があります。まぁこれは日本だけに限った話ではなく韓国や中国、その他アジア系の人々に比較的よく見受けられるな~と感じる事なのですが、それはやたらと英語が神格化されており、英語を基準にした階級社会が構築されているのではないか、という事です。もっと平たく言えば、相手の英語力が自分のより高いか低いかで上下関係が決められてしまうという事がちょこちょこあるんじゃないかなあという事です。

 

これは大学の英語科の学部で勉強していた時でもアメリカ留学時代でも、英語の先生をやっていた時も、オーストラリアのワーホリ時代でも感じたのですが、人より英語ができる(と少なくとも自分で思い込んでいる)人の中には、自分より英語ができない(と思う)相手に対して態度がデカくなったりする人がけっこういる気がします。もちろんほとんどの人がそうなるわけではなく、英語が上手な人や英語を教える仕事をしている人でも、横柄でない、普通のちゃんとした態度の人はたくさんいらっしゃいます。

 

でも前述のエラソーな態度の人たちの数は、単なる例外として片付けられるような少なさではないように思えます。英語のノンネイティブ同士で英語で会話をしている時などに相手の細かい文法ミスを得意げに指摘してレクチャーしたがる文法オタク、自分の英語には日本語訛り(あるいは他のアジア系言語の訛り)がなくて「ネイティブらしい」発音ができる事がよっぽど誇らしいのか(あるいは自分もだいぶ訛ってるくせに)、ネイティブ発音でない人の発音に関して「あいつの発音はここがダメだ」といちいちネチネチ言う人、はたまた英文を見かけるたびにこれ見よがしに周りの人によく聞こえるように大きな声でその英文を音読し、自分の発音を見せびらかす人、等々。逆に、こういう人たちは自分より明らかに英語力が高い人やネイティブが現れたりすると、とたんに勢いを失って低姿勢になるというように、コロコロ態度を変えるなんとも忙しい方たちなのでございます。

 

僕はこの傾向は、テレビ番組では更に顕著であるという印象を持っています。帰国子女の人とかハーフのタレントとか、英語を勉強して喋れるようになった人とかがいたりすると、別に英語を喋る必要もない場面でもわざわざ英語を見せびらかし、「うわー、すごーい!」と周りからどよめきが起こるという、見飽きたパターンの光景が何度も繰り広げられております。他にも何気なくバラエティ番組とかを見ていると、やれ英語のVやthの発音ができるかできないかとかで出演者たちが選別され、称賛されたりバカにされたりするなどしてます。

 

ニュースの特集などでも、英語に特に力を入れている「スーパーイングリッシュ指定高校」や将来世界で通用するアスリートを育成するための○○スポーツアカデミーみたいなエリートアスリート育成学校らしきものが紹介されたりする時に、「なんと授業は全て英語で行われます!」といった具合に、いかにも英語が使える事がそれだけで「選ばれしエリート」の象徴であるかのような報道の仕方になっています。こういうのを見ていると「いとをかし」「あはれなり」とか思ったりするのですね。(←チョット使イ方ガ違ウ気ガスル)

 

このような現象の背景には、最初の段落の内容に戻りますが、やはり「英語の(喋れる人の)神格化」があると思うのですね。英語は日本語や韓国語、その他アジアの言語の数々とは文法もボキャブラリーも文化的背景も似ても似つかないものであるため、言語の性質的にはアジア人にとっては非常に習得が難しい言語の1つです。しかもアジアの国々の英語教育は日本と同じく英語圏の語学学校で行われているようなタスクベースのコミュニカティブアプローチが採用されていない場合がほとんどですから、学校教育だけではなおさら英語は習得しにくいです(だからこそ英会話スクールや英語圏の語学学校が儲かるのですが)。となると必然的にアジアでは、香港やシンガポールやフィリピンなど、英語圏の国の植民地支配の影響を受けて既に英語が社会にある程度浸透している所を除いて、英語が喋れる人はけっこうレアな存在であるという事になります。

 

ここで「自分には他の大勢の人たちができていない事(英語を喋る事)ができる。自分は優秀であり、レアな存在だ」という妙なプライドが生まれてしまうのでしょうね。これが英語の神格化現象の根っこにあるものの1つなのではないかと思います。

 

この妙なプライドや英語ができない人を見下すような風潮は、元々はノンネイティブだけど勉強をして英語が喋れるようになったという人に限らず、幼少期よりバイリンガル環境で育って英語も親の故郷の言語もどちらもネイティブレベルで喋れるという人たちの間でも時折見受けられます。親の英語を「LとRの発音が違う」だとか「ジャパニーズイングリッシュ」だとかいってバカにしたりとか、そういうやつです。これは日系移民に限らず、他の民族の移民でも同じような事が起こるそうです。アメリカ人と結婚したスウェーデン人のお母さんが、子供にスウェーデン語訛りの英語を笑われるとかね。

 

あんたらねー、自分は恵まれた環境で育ったからわからんだろうけど、移民1世はホント大変なんだぜ?言葉のみならず、ビザの事とかも仕事の事とかも異文化に飛び込んだ事によるカルチャーショックの事とかも全部ひっくるめて、移民1世に襲い掛かる試練は2世以降の世代より桁外れにキツイ。あんたらもせめて大人になってから第二外国語の1つや2つでもやってみろよそうすりゃ少しは大人になってから外国語を勉強する大変さが身に染みてわかるぜって突っ込みたくもなります。

 

このような、英語を(ある程度)高いレベルで使いこなせて得意な顔をし、英語ができない人をそれだけの理由で小バカにしている人たちに言いたいのは、たかが英語が喋れるとかそんな程度でエラソーにすんなって事です。大体、英語なんてのは世の中に存在する山ほどある数々のスキルの中の1つにすぎんでしょう。

 

英語以外にも、Excelだってプログラム言語が書けるのだってスキルだし、建築の知識や経験があるのもスキルだし、一般職で電話対応をしたりいろんな書類手続きをしたり、管理職の人が部下の人間関係がギクシャクしたのを上手にまとめるのもスキルです。僕がオーストラリアで最初に入ったセールス会社の話で出てきた、従業員の士気をあれだけ高められる、中くらいのザンギエフのリーダーシップだってスキルの内です。

 

むしろ、僕が今まで日本で仕事をして、オーストラリアに行ってそっちでも仕事して、また日本に戻ってきて仕事をするようになって、重要性を感じたのはむしろこういう英語以外のスキルの数々です。日本での最初の職場でも、オーストラリアの職場でも、帰国後の職場でも、尊敬できる先輩たちはやっぱりいろいろ持っています。どうやったら部下の気持ちを不必要に傷つけずに必要な指導ができるかとか、複数の仕事を素早く正確にこなすにはどうしたらいいかとか、人間関係のトラブル解決術とか、ホントたくさん出てきます。

 

このようにスキルはいろいろある中で、何故英語だけがデカい顔できるのか、不思議だとは思いませんか?

 

ましてや、特にこれといったスキルがなくても人気が出る、評価されるって事だってあります。オーストラリアのワーホリ時代に4か月ほどレンマークという小さな町でファーム生活をしていましたが、そこにウェバーというイングリッシュネームの台湾人がいました。ウェバーは英語力だけに関しては、僕が今まで会ってきたアジア人の中でもかなり難ありな部類に入ります。英語以外にも、スポーツとか音楽とかでこれといったずば抜けた才能があるわけでもないです。でも、彼の所には自然と人が集まるんですね。人と仲良くなるのが本当に上手。気が付けばみんなに好かれているというタイプの人間です。僕もこの人は、会って間もなく「おぉ、なんかいいな、この人^^」と感じました。なんか人間力があるというか、人にそのように思わせるオーラかなんかが出ているのでしょうね。

 

一方で、本編のオレンジピッキングの話の所で出てきた「とあるサッカーの名門」は、英語力で見てみれば、韓国人にしてはだいぶレベルの高い方でしたし、部屋に包丁を放置していたオランダ人のミスター悪臭の英語は限りなくネイティブに近いレベルでした。でも、この2人はみんなから嫌われてました人間関係に関するスキル云々とか言う以前に、本編にも書いたように、他人に対する(それも落ち度のない人間に対する)敬意が一切欠けているのですから、それも当然です。あなただったら、ウェバーと「とあるサッカーの名門」とミスター悪臭の3人のうち、誰と友達になりたいですか。誰と一緒に仕事したいですか。僕だったら友達としても仕事の同僚としても断然ウェバーですけどね。

 

あ、そうそう。さっき英語はスキルの1つにすぎないと書きましたが、それはあくまでアジアでの話です。オランダやスウェーデンやドイツなどのゲルマン系の言語を喋る国々やフィンランド等においては、大多数の人が当たり前のように英語を高いレベルで使いこなせるから、英語はそもそもスキルとしてカウントすらしてもらえないです。これらの国々では、高卒以上の人が英語を喋れるというのは、「日本人で高卒であれば、ほぼ誰でも常用漢字は一通り使いこなせる」というのと同じぐらいの敷居でしかないのでしょう。

 

まぁ、だからといってゲルマン系の人たちが一概にアジアの人間より優秀という事にはならないですけどね。彼らの話すゲルマン系言語は英語とよく似ているので、一般的には英語の習得にアジア人ほどは苦労しません。逆に、外国人が日本語を学習する時は、西洋人は中国人や韓国人と同じスピードで覚えられない場合が多いです。この事からも、言語がどれだけ似ているか異なっているかが学習効率に大きく影響している事がわかるでしょう。確かに西洋の方が語学教育が進んでいるのもあるのかもしれませんが、言語の性質も無視できない大きな要素の一つです。(もっとも、フィンランドの場合、フィンランド語は英語と似ていないので、なぜフィンランド人たちがゲルマン系言語の人たちと同じぐらい高いレベルで英語を使いこなせるのか興味深いケースではありますが)

 

話は戻って、英語を喋れる程度で威張るなというのであれば、「でも私は英語以外にももう1つ外国語を喋れる、トリリンガルなのよ!」と、やはり「語学堪能」である事をプライドとする人が出てくるかもしれないですね。でも、それに対しても、やはり「そんな程度でデカい顔すな」です。

 

世の中は広いもので、そんなトリリンガルたち以上に語学堪能で、尚且つ語学以外の分野でも高い能力や功績を持つ人間なんてたくさん存在します。

 

例えば、大相撲ではちょっと前まで把瑠都(ばると)というエストニア出身の力士がいました。彼は本職の相撲では、最高位の横綱に次ぐ大関の地位まで上りつめ、幕内最高優勝も経験した人物です。ほとんどの力士は幕内最高優勝を1回もできず、大関にもなれないまま現役生活を終える事を考えれば、これだけでも把瑠都の功績は十分立派なのですが、彼は語学も堪能で、母国語であるエストニア語の他に、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、日本語の6か国語を使いこなします。そしていつも笑顔を絶やさない明るい性格で、キャラ的にも人気者です。

 

同じく大相撲からですが、鶴竜(かくりゅう)という力士がいます。彼は最高位である横綱の地位まで上りつめており、歴代の横綱の中で一番新しい人です。非常に謙虚で、礼儀正しく大人しい人柄で知られており、「日本人以上に日本人らしい」とも評されたほどです。そんな鶴竜ですが、彼も母国語のモンゴル語に加え、英語、ロシア語、日本語の4か国語を喋れます。

 

ハリウッドの世界でも、多才な人物はいます。映画『ブラックスワン』の主演などで知られるナタリー・ポートマンは学生時代の進学先の大学はハーバードという才女であり、英語とヘブライ語、フランス語、ドイツ語、アラビア語、日本語の6か国語を話せます(日本語は日常会話程度だが、残り5つは流暢)。

 

他にも、ハンガリー出身の数学者にピーター・フランクルという人がいますが、彼は10代で既に数学オリンピックで金メダルを獲得しており、語学に関してはなんと14か国語を使いこなせるそうです。母国語のハンガリー語以外に、ドイツ語、ロシア語、スウェーデン語、フランス語、スペイン語、ポーランド語、英語、日本語、中国語、韓国語、タイ語の12か国語で大学の講義ができ、インドネシア語とチェコ語でも日常会話ぐらいはできるそうです。

 

おお、なんか外国人ばっかりですね。日本人にも凄い人はいないのか?と思ってしまいそうですが、いますよ。残念ながら現在は既に亡くなられていますが、日本の外交官に杉原千畝(ちうね)さんという方がいらっしゃいました。杉原さんがリトアニアの領事館に勤められていた時に、当時強大な力を持っていた、ヒトラー率いるナチスドイツの迫害から逃げてきた大勢のユダヤ人たちが詰めかけてきたのですが、杉原さんは彼らがナチスの脅威が及ばない安全な国に逃げる事ができるように大量のビザを発給し、およそ6,000人のユダヤ人の命を救ったという記録が残っています。

 

簡単に書きましたが、これは当時の状況を考えると大変な事です。当時の日本はナチスドイツと同盟関係にあったので、ナチスドイツにこれでもかというほど嫌われていたユダヤ人の命を救う手助けをするというのは、同盟関係であるドイツに喧嘩を売るも同然とみなされる行為でした。当時の日本政府からも「ユダヤ人など助けずに見殺しにすればよい」といった趣旨のメッセージが届いていましたし、相当なプレッシャーがあったはずですが、杉原さんはそれを無視。自分の身分の危険を顧みず、何よりも落ち度のない人間が殺されるのが人として受け入れられないという人命優先の考えを最後まで曲げず、上司や同僚たちから「上の命令に背いて勝手な事をして、お前はそれでも外交官か」などと罵声を浴びながらもユダヤ人を助けるためのビザを発給しつづけたという人です。

 

当時のビザは手書きのため、杉原さんは一枚一枚全部自分の手で書いていました。何千人分ものビザを文字通り寝る間もなく四六時中書きまくったので、激しい腱鞘炎を起こして手が震えてまともにペンを握る事すらままならない状態にまでなったそうです。純粋に「困ってる人を助けなければ」という気持ちだけで赤の他人のためにここまでできる信念、すごいですねぇ。杉原さんがまだ生きていた当時は「お国の意向に背いた」として非難の嵐でしたが、亡くなられてしばらくしてからようやく日本国内でも評価されるようになってきました。偽装問題とかで不祥事起こしてばかりの大企業のトップの連中とか、保身第一でダメなものにダメと言えない政治家とかに、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいぐらいですね。

 

そんな杉原千畝さん、語学もやはり堪能で、母国語である日本語の他に、英語、ロシア語、ドイツ語を流暢に話していたそうです。これ、インターネットはもちろん、CDとかの音声教材とかもロクになかった時代での事ですよ。かなり凄いです。リトアニアに勤務する前はロシアにいたそうですが、ロシア語が堪能だったのに加え、誰とでもすぐに仲良くなれる明るい性格をしており、さらにロシア人に負けないほど酒も強かったという事で、地元のロシア人とはあっという間に親しくなり、現地で確固たるネットワークを築いたそうです。

 

さて、長々といろいろ書きましたが、そういう自分はどうなんだと言われると、僕自身も大した能力は持っておりません。だからこそ言いたい事なのですが、世の中にはこんなすごくて偉大な人たちが大勢いるのに、たかだか外国語の1つや2つができたり、その他何かちょっと人より上手くできる事があるぐらいで、自分よりできない人をそれだけの理由で見下すというのは、恥ずかしくて恥ずかしくて、肩身が狭くてとてもできない事だと思うんですよね。

 

あんなにも有能で器の大きい人間たちの存在を知ってしまったら、自分の器の大きさなどペットボトルのキャップほどにしか感じられなくなってしまうでしょう。それにいつまでも気づかずゲコゲコ言っている井の中のカエルちゃんって本当に恥ずかしいです。

 

そういえば以前、足の速さが自慢のスリが、空港でとある男の荷物をパクって、「俺の快足についてこれるものか」とタカをくくって走って逃げたら、実は荷物をパクられたのに気付いて追いかけてきたその男は、当時の陸上男子100mの世界王者であり世界記録保持者でもあったモーリス・グリーンだったという珍事件がありました。普通の人より足が速いとはいえ、所詮素人のスリの男ごときがモーリス・グリーンのスピードに敵うはずもなく、あっという間に追いつかれて捕まり、大恥をかいただけでなく人生を棒に振りました。

 

自分が何かの分野で「井の中の蛙」状態になっていたら、こんなトホホな思いを実際にする前に気づいて態度を改めたいものですよねぇ。

 

《ポイントまとめ》

・英語ができるかできないかで人をチヤホヤしたりバカにしたりするのはアホらしい事である

・このアホらしい現象の背景には、「英語の神格化」現象がアジア人たちの間で広まっているという事が考えられる

・世の中に数多く存在する様々なスキルの中で、何故英語ばかりがここまでデカい顔ができるのかが不思議である

・英語ができるが仕事はできない人もいれば、英語はできないが仕事はできる人もいる。英語ができるが人から嫌われる人もいれば、英語はできないが人から好かれる人もいる。

・2~3か国語喋れる程度で図にのるでない。世の中にはそれ以上に語学堪能で尚且つ他の能力にも優れている人間など大勢いるのだから。