熱血な人っていますよね。これは国や時代を問わず、どこにでもいると思います。日本にだっているし、オーストラリアにいた時もけっこう見かけました。で、日本に戻ってきてしばらく経って、ふと思うようになったのですね。「ああ、熱血にはポジティブな熱血とネガティブな熱血があるな」と。どんな時に思ったのかというと、例えば日本のテレビ番組を見ている時とかです。あ、別に日本の熱血な指導者が全員ネガティブな熱血と言ってるわけではないですよ。日本にもポジティブな熱血指導者はたくさんいらっしゃると思います。ただ、僕が思うのは、テレビに出てくるいわゆる「熱血」には、ネガティブなものがよくある印象があるという事なんですね。

 

さっきからポジティブな熱血とかネガティブな熱血とか言ってますが、そもそも熱血にポジティブとかネガティブとかあるの?とかいう疑問が浮かんでくるかもしれませんね。あると思いますよ、実際。では何を基準にポジティブとかネガティブとか言っているかというと、その「熱血」な指導の中に、指導を受ける側の人間に対する人格否定や個人的な攻撃が入っているか、またするにしてもそれをするに足りうる正当な理由があるかどうかだと思います。従って、落ち度のない人まで責め立てるようなものは「ネガティブな熱血」です。

 

ではまずはネガティブな熱血の例から入っていきましょう。僕がけっこう前に見たバラエティ番組の企画の「熱血指導」で、「うわ~、これ熱血とか言ってるけど、考え方が暗いな~。なんだかんだでネガティブだな~」と思ったものがあったのですが、その内容は次のようなものでした。

 

「自分に自信を持てない子が、熱血テニス合宿を通じて前向きな考え方の子になれるように成長しよう」という企画。現れた指導者は、この企画に応募してオーディションも通過して選ばれた生徒たちに、「これから与える課題をクリアできた者だけに、この合宿に参加する許可を与える。できなかった人はその場で帰ってもらう」と言いました。

 

その課題とは、指導者が自分のコートに打ってきたボールを相手のコート内に打ち返すというもの。当然ボールがネットに引っかかったり、コートの枠の外に出ちゃったりしたら不合格。そして挑戦できるチャンスは1回のみ。できなかったらここから先の合宿参加は諦めて帰れ、というルールでした。

 

生徒の多くは「チャンスは1回のみ」というプレッシャーに打ち勝ち、見事ボールを相手のコート内に打ち返します。ところが、何人かの子はボールをネットに引っかけてしまったり、まともにボールをラケットでとらえる事すらできず、相手のコート内にボールを打ち返す事ができませんでした。

 

それを見て指導者は「こっちをよく見てみろ。こんなにコートは広いんだ。この中に入りさえすれば、コートのどこにボールが落ちても合格なんだ。これだけのスペースがあるのに、入らない方がおかしいよな?」と、失敗した生徒たちを責め立てます。意気消沈してトボトボと歩いて帰り支度をする生徒たち。

 

そして荷物をまとめ終わって合宿所を出ようとしたその時、指導者が彼らの前に現れ、こう言いました。「君たちの気持ちはこの程度か?これが君たちの本気か?強くなりたいんじゃなかったのか?自分を変えたいんじゃなかったのか?なんで言わないんだ!『もう1回挑戦させてください!』って!」

 

この発言を聞いて、「何言っちゃってるのこの人―――??」と思いましたね。そもそも、「チャンスは1回だけ。失敗したらここから先の合宿参加はせずに帰ってもらう」というルールを事前に説明したのはこの指導者の方です。これね、ちょっと違った状況設定で言うならわかりますよ。例えば、「何回失敗しても構わないから、この課題を成功した者のみここから先の合宿参加を認める」っていう条件で、何度やっても失敗しちゃうから早々に諦めて「帰ります」と帰り支度を始めた子がいたとか。これだったら、さっきの「君たちの気持ちはその程度か?それが君たちの本気か?何でもう1回やらせてくださいって言わないんだ!」という台詞はわかります。

 

でも、自分でルールを決めといて、生徒がそのルールを破らなくてそれで責め立てるって、全然一貫性がないし、こんな風に物事の基準がコロコロ変わる指導法がまかり通ってしまうのはどうなのかと思います。だって、考えてみてもくださいよ。野球でバッターは三振したらアウトで、アウトになったバッターは速やかにバッターボックスから出ていくという事になってますよね。これ、事前に取り決められたルールです。みんなそれに事前に合意しているという前提で試合してます。で、三振して審判から「アウト」と言われたバッターが、素直にバッターボックスから出ていくのを見て、「お前の気持ちはこんなもんか?何で審判とピッチャーとキャッチャーに『もう1球やらせてください!』って食い下がらないんだ!」と監督がバッターを叱責していたら、とんだ笑いモンでしょう。

 

だってこれ、「自分の主張は事前に合意したルールを破ってでも押し通せ」と言っているようなものですよ。生徒たちには落ち度がないのに指導者から責め立てられるなんて、どう見てもこれはネガティブな熱血だよな~と思わずにはいられないのです。

 

テレビを見ているとネガティブな熱血が目につくと最初に書きましたが、そう言えば自分の身近な人にもいました、こういう落ち度のない子まで責め立てる「ネガティブな熱血」の人。既に辞めた職場での話ですが、生徒に厳しい言葉を投げかける先生がいました(あ、もちろんそれは一部の先生の話で、多くの先生は非常に尊敬できる人でしたし、生徒からも人気でしたよ)。厳しい事それ自体が問題だと言っているのではありません。問題は、落ち度のない子まで無意味に責め立てる事です。

 

例えばある時、この先生が担当しているクラスのテストの平均点が30点にすら届かなかった事がありました。んで、テストの出来の悪かった生徒の1人を冷たい目で睨みつけ、「学校辞めるか」という台詞で追い打ちをかけたのです。その生徒に関しては別に普段の素行が悪いとか、人間性に問題があるとか、そういう事は特になかったようです。ただテストの出来が悪かったというだけです。それで何でそんな酷い言葉を浴びせられなければならんのか?という事です。

 

これね、よっぽど人間性に問題がある子に言うならまだその気持ちはわからんでもないです。例えばクラスメートに陰湿ないじめをしまくって自殺まで追い込んでおいて、反省するどころかその自殺してしまったいじめの被害者を死んだ後でも嘲笑してたとかね。そういう奴がいたら、「お前学校辞めるか」とかプレッシャーをかけたくなる気持ちもわかります。

 

まあ、僕はどちらかというと叱るよりも褒めて伸ばすタイプの人間なので、仮にそういう子がいたとしても「学校辞めろ」だなんて、そんな酷い事は言わないですけどね。代わりに「ご褒美」として、顔面に竜巻旋風脚をお見舞いして差し上げます。(←それはもはや体罰どころか殺人未遂です)

 

でも、実際にはこの先生のケースではただ生徒のテストの点数が悪かっただけ。これ、どう見ても教える側の責任ですよ。だって、平均点で30点切るとか普通はありえないです。使う教材がそもそも生徒に全く合っていないか、よっぽど教え方が酷かったのか、作ったテストの問題がまったくもって不適切だったのか、あるいはその全部なのかのどれかだと思います。

 

クラスの生徒のほとんどが超荒れまくりの、まともな授業など成り立つもんじゃないようなド底辺校とかならいざ知らず、この先生が担当していたのはこの辺の地域ではごくごく平均的なレベルのごく普通の公立学校の高校生たちです。全体的に落ち着いた良い子ばかりです。「生徒の質が悪いからテストの結果が悪かった」なんて言い訳は通用しないでしょう。ましてやマジメに勉強してたはずなのにテストの点数が取れなかった子に対して「学校辞めるか」なんて論外です。なんという責任のなすりつけでしょうか^^;

 

他にも、「熱血」とは少し逸れますが、生徒の英語のスペルがちょっと違っているだけでその子の人格否定をするような先生もいました。やれWの書き順が違っているだけで「何でこいつらこんなWの書き方するんだ、気持ち悪ぃ~」とか、小文字のaとuの区別がつけにくい書き方をする子の答案を見て「こんな奴らに高校に入ってきて欲しくないんだよな」と吐き捨てたり。

 

それを横で見ていた僕は「お前みたいな奴に先生やってほしくないんだよな」と思ったものでした。なんでたかだかこんな細かなスペルミスごときで、人格否定にまで結び付けられなければならないのか、理解に苦しみます。これに比べたら、「フェルマーの最終定理」を理解する事の方がよっぽど簡単なような気さえしてきます。

 

ちなみに、英語のスペルで生徒の人格否定をするこの先生は、生徒から大変嫌われておりました。この先生自身も自分の担当のクラスの生徒に嫌われている事を感じ取っていたようで、よく「今日はこいつらのクラスが2コマもある。何で1日に2回もあいつらと顔を合わせなきゃならんのだ」などと嘆いておられました。

 

僕は最初のうちはこの先生が上記のような歪んだ人格の持ち主だという事を知りませんでしたし、この先生があまりにもこのクラスの子たちを嫌がっていたので、自分がいざこのクラスに授業で行く事になった時は、「どんなクソガキばかりが集まったクラスなのだろう」と身構えたものでした。でも、実際に会ってみると、ごくごく普通の良い子たちではないですか。この先生は生徒の前では上記ほどあからさまに悪口は言っていなかったのかもしれませんが、そのネガティブなオーラを生徒も感じ取っていたのでしょうね。だから嫌われるのだと。

 

さて、すぐ上の段落のスペルミスの先生は生徒から嫌われていたので自業自得ですが、「学校辞めるか」の先生やテニス合宿の指導者は少なくとも一部からは「熱心な指導者」として評価されておりました。こういう人たちを「熱血」であるとして評価する人間が一定数存在するという事実は渋々ながら認めますが、おそらくこの人たちは「本当の熱血」、「ポジティブな熱血」をあまり見た事がないのでしょうねぇ、だからこんな「ネガティブな熱血」でも「熱心な指導者だ」などと評価してしまうのでしょうねぇと、ため息が出てしまうのです。

 

もちろん日本にもポジティブな熱血指導者はたくさんいらっしゃるでしょうが、僕が直接それを見たのはオーストラリアにいた時でした。例えば、僕がオーストラリアで最初に入ったセールス会社の中くらいのザンギエフもポジティブな熱血指導者の部類に入ると思います。彼は確かにあまりにハジケすぎていて「オイオイ(^^;)」と突っ込みたくなるような発言もありましたが、常に一貫していたのは、自分の部下を指導する時に、その人を個人的に人格否定して責め立てるような指導の仕方は絶対にしなかったという事です。

 

無理やりであろうとも、ポジティブな方向性で持って行く。そうやって部下たちの士気を高めていく。仕事の出来が悪い社員が一部いて、その部下たちの仕事の仕方を改めたい時も、その出来の悪い部下に「何でお前はそんな無能なんだ」みたいな個人的な攻撃はせず、代わりに全体のミーティングで、「さぁお前たち、研修で教えてもらった事を全部試して2時間が経過しても1件も契約が取れなかった場合はどうする?そう、自分の担当の上司に電話してアドバイスを求めることだな?そうしなければお前たちもお前たちのボスも金と時間を無駄にしている事になる。お前たちも、俺たちも、困っている所にはヘルプを出し、一緒にハードに働いて一緒に売り上げを伸ばすのだ。Sounds good?」と、パワフルながらもあくまで明るい口調でチーム全体にメッセージを行き渡らせる事で具体的に誰に言っているのかをわからなくして、出来の良い社員にも出来の悪い社員にも同じメッセージを届けるという手法を取っていました。中くらいのザンギエフはたまに社員の何人かに個別に指導を入れる事もありましたが、そこでも社員個人に対する攻撃的な口調や威圧的な内容の発言はありませんでした。

 

そういえば、僕がレンマークに向かう直前まで働いていたメルボルンのカフェでの上司の1人であるジョンも、どちらかというと熱血タイプの男でしたし、キレた時の彼の迫力はなかなかのものでした。彼は自分が板前の修業をしていた時はいわゆる「ネガティブな熱血」の指導をするシェフをたくさん目にしてきたようです(オーストラリアも昔は部下や生徒を褒めて伸ばしたり、親切に指導するように努めていたわけではなかったらしい)。その時代は、それほど必要性がない時でも怒鳴りつけたり、人格否定をしたりするような上司も普通にいたそうです。実際彼はそんな環境の中で実力をつけてきたし、彼自身は個人的にはあの頃の荒い指導法の方が好きだったという思いもあると言っていました。

 

でも、実際には、ジョンは「でも今はそういう時代じゃないからね」と現実を受け止め攻撃的な指導を封印し、時代に合わせた、不必要に部下の人格否定をしないポジティブな指導に努めていますこの「現実を受け止めている」って所が彼の立派な所だと思いますね。

 

話は日本に戻りますが、僕の印象では、残念ながら少なくともメディアでは、ネガティブな熱血が幅を利かせているような感じがあります。日本にだってポジティブな熱血指導ができる人もいるはずなのに、そういう人たちにあまりスポットライトがあてられていない気がします。「優しくしていてばかりでは教育にならない」と言う人たちの主張もわからんではないですが、だからといって「指導」と称していじめや個人攻撃に走る「ネガティブな熱血」ばかりが増えても困ります。優しく指導するにしても、厳しく指導するにしても、教育はポジティブであってもらいたいものですよね。