「あぁ、ミズ本郷。来週の日本での交渉には君もくるように。」

ジェフは、仕事の指示を出し終え、デスクに戻ろうとしたところで急に振り向きまるでコーヒーでも貰おうかといったような何でもないことのように平然と言った。

「えっ?私もですか?」

「そう。君も。」

何故聞き返されるのかわからないと言ったように右眉をあげてジェフは答える。

「確か、ベンと行かれるはずでは?」

「そのつもりだったのだけれど彼の奥さんが流産しかかってしまってね。まさかそんな状態の奥さんから離れるわけにはいかないだろう?」

「えぇ、そうですね。でも私でいいんでしょうか?」

「他に誰か適任者がいるかい?この案件には君が一番精通しているし、日本は君の母国だろう?」

「...。」

未緒はキーボードをたたく手を止めて表情をなくしている。もともと、表情が豊かではないから他の者ならわからなかったかもしれない。ここ最近の未緒は冗談を言ったり、辛辣なことを言ってジェフをからかうこともありだんだんと打ち解けてきていたのでジェフには未緒の顔色が変わったことがわかった。

「何か不都合でも?」

ジェフは右眉をあげたまま探るように未緒をみた。未緒は仕事熱心で、残業や出張を嫌がるそぶりを見せたことはなかった。しかも、今回は日本への出張である。未緒の母国ではないか。

「いえ...。そんなことは...。あの、私も交渉の席に同席するのでしょうか?」

「そうだね。僕も日本語はそれなりにわかるけれど、細かいニュアンスは無理だから。同席してくれると助かるよ。」

「それはしないほうが...。」

未緒は小さな声で呟いたが、その声は電話の音にかき消されてしまった。ジェフは電話をとろうとデスクに戻りながら未緒に言い捨てるとドアを閉めた。


「とにかく、出張の準備をしておいてくれ!」



未緒はジェフに出張の件を考えて欲しいと言おうと思っていたが、結局言いだせずに出張に行く日になってしまった。日本側の企業は、以前に父と取引をしていた会社だ。未緒はほとんど家にいてパーティーなどの公の席に出たことはない。パートナーの必要な時は母か、姉が出ていた。それでも、どうしても避けられない場合もある。そんな時はできるだけ壁の花になっていたが、あの頃は顔の傷も隠していなかったから自分のことを覚えている者もいるかもしれない。自分は何と言われてもいいが、これには仕事が掛かっている。自分の所為で交渉が決裂するのは何としても避けたい。


「ボス。お願いがあるのですが...。」

機上の人となり、飲み物がふるまわれたところで未緒はジェフに話しかけた。

「ん?珍しいね。君が僕にお願いなんて。何?」

「あの、どうしても交渉の場に同席しなければいけないのでしたら私のことは『君』とか呼んで頂けませんか?」

「『君』?なぜ?」

未緒はグラスに視線を向けジェフとは目を合わせないようにしながら言う。

「別に...。今も私のことを『君』とおっしゃいましたし...。そんなに不自然ではないと思いますけど...」

読んでいた新聞を膝に置き訝しげにジェフは未緒を見た。

「思い切り不自然だろう。それに今は『君』と『僕』の二人で話しているからだろう?大勢の中で『君』なんて。なんだか僕が尊大で傲慢に見えるじゃないか。」

その通りだからいいでしょうと内心では思いながらも、未緒はどう話せば分かってもらえるのか途方に暮れた。確かにいきなり名前を呼ぶななんておかしいと思って当たり前だ。

「ボスは交渉が上手くいくことをお望みですよね?」

「それはもちろん。でも、それとミズ本郷、君の呼び名とは関係ないだろう?」

「あるんです。実は、日本側の企業は以前、父と取引のあった会社なんです。私のことを知っている方がいるかもしれません。」

「なら、尚更、都合がいいじゃないか。」

「いえ、娘の私が言うのもおかしいですが父は評判の悪い人で...。ですから、私のことは名前で呼ばないで欲しいんです。」

「だからといって『君』ってわけには...。」

暫く考え込んでいたが、ジェフは何か思いついたように顔をあげた。

「ミズ本郷、相手側は君のファーストネームも知っているのかい?」

「さぁ、どうでしょう?恐らく知らないかと...。」

「なら、決まりだ。『未緒』でいいかい?」

「えっ?」

「別に構わないだろう?アメリカでは上司と部下でもファーストネームで呼び合っていることも多々ある。気になるなら、『君』もジェフと呼んでくれて構わないよ?」