自分への禁止事項が多かったり、譲れない強いこだわりがあると
自分にとって苦手な言動をする人が絶妙なタイミングで目の前に現れる。
「え?別にそれ禁止じゃないですよ?そのこだわりいりませんよ?どっちでもいいんですよ」という自由への切符を手にして。
若い頃は苦手な人に会う度、否定したり拒否したり我慢したり憤っていた。
我ながら元気だったなと思う。
否定関連は莫大なエネルギーを消費する。
オエオエしながらエゴと向き合い始めたある頃から怒りは無理解という言葉が腑に落ちるようになった。
例えば何かや誰かを受け入れがたく思う。
そうするとその人と同じ状況を体験するという状況を(私の場合)プレゼントされた。
君は実際体験した方が早いでしょ?と言わんばかりに。
(否定するもんだから自分で起こしている)
それでようやく自分ごととして捉えられるようになる幼い私である。
実際のところは自分の中の長らく見て見ぬ振りをしているところに気づき、受け容れることが狙いで起きている。
そこを認めると相手の言動の自由もすんなり受け容れるに至る。
あぁ、もしかしたらあの人もこういう心境だったのかもしれない。と、
その人の痛みや苦しみ、もしくは信念がチラッと見える。
あの人があー言ったのは、あーしたのには、それなりの事情があったのかもな。という気持ちが湧く。
人を憂うと書いて「優しい、優れる」と読む。
日本語は美しい。
2024.3.22