どうもお久しぶりです。
復活したかと思えばいきなり壮大なタイトルです。

日本の人口が初めて減少しましたね。
厳密には、日本国内の日本人の数が減っただけで外国人含む絶対数は増えているのですが。

一方で、世界人口は今月末で70億人に達することが確実視されています。

このニュースを受け、人類にとって今後幸せな道は何なのかを考えてみたのです。
とはいってもさすがに壮大すぎるので今回は「資源」と「人口」という観点からの考察です。


■人類は増え過ぎた?

70億人。この数字が表すものは何でしょうか?

人口が増えることでまず懸念されるのはやはり資源不足です。
食糧やエネルギーなど、地球という絶対的なパイがある以上、人類が確保し得る資源には限りがあるからです。

人口が資源の絶対量を超えるとどうなるか。
そりゃもちろん決まったパイの奪い合いになるわけですから争いが生まれます。
これは人類全体にとっても非常に望ましくないことです。

しかし今のペースのままで人口が増え続けた場合、それはいつか必ず出てくる避けられぬ問題でしょう。

現代ではまだ途上国と先進国で生活水準や資源の使用量が圧倒的に異なるため、一定の資源でも分配できている状況です。
ただ、今後例えば今の発展途上国の人たちが先進国並みの生活をし始めたのなら、たちまち資源は不足してしまうでしょう。

つまり、地球という限られた資源にとっては人類は多過ぎると思います。


■人類全体の幸せとは何か?

これも壮大なテーマです。
しかし、単純に資源の分配という観点から考えるのなら、「地球上の誰もが飢えず、充足たる資源分配を受けられること」が望ましい形です。(豊富ではなく充足という言葉を使います。)

その点で考えると、日本並みとは言わないまでも、全人類が平均的な先進国並みの暮らしができる、というレベルがベストなのかなと思います。

ただ、それをやろうとすると今の資源量ではおそらく足りない。

それを解決するには「人類の絶対数が減少する」か「資源の絶対数が増える」ことしかないのではないか、と思うのです。
極端な意見だと思いますが。

例えば世界人口が40億人くらいならある程度平均的に資源が分配されたとしても最低限充足した暮らしができる気がします。
本来資源が限られているこの世界で、量的な幸せを求めるとするならば人類の目指すべき道は「人口を増やす」ことではなく、「一人あたりに分配される資源の量を増やす」ことだったはずなのです。

まあ、人口がこれだけ増えて今更そんなことを言っても仕方ないのですが。


■200年後の人口は?

あと50年もすれば世界人口は100億人に達すると言われています。
たしかに今後100年くらいは程度の違いはあれ、人口は確実に増え続けるでしょう。

しかし、はたして200年後はどうか?と考えたとき、減少の可能性はあるのではないか、と思うのです。

なぜなら現在の途上国がやがて発展したときに、先進国になればなるほど出生率は下がるからです。

これは欧米や日本などの先進国の例が示すだけでなく、資源的な根拠もあります。
先進国は生活水準が高い。つまり「使用する資源量が多い」わけです。

例えば家庭を考えた場合、一人あたりに必要とする資源量が多ければ多いほど、その資源量を確保することが困難になるのです。
資本主義下でいえば、ある一定量の資源量を確保するには相応の資本が必要となるため、一人の親・もしくは働き手が確保できる資本はある程度決まってくるわけです。

これが途上国なら一人あたりに必要とする資源量が絶対的に少ない生活をしているため、少ない資源の確保で大人数が養える、つまり多くの子供が生める、ということになり、高い出生率に繋がります。
途上国の出生率が高いことはこういった資源の必要量が関係しているはずなのです。

さて、では200年後、今の途上国が先進国になったらどうなるか?

一人あたりが必要とする資源量は増え、結果、出生率が下がります。
・・・実はこの出生率が人口に非常に大きな影響を与える。

人間は長くても100年経てば大体死ぬので、どんなに平均寿命が延びてもいつかは減ります。
これに対し、生まれてくる人数が一定だと結局は人口は減るのです。


■世界最適を目指して

さて、人口減ればいい説を唱えてきましたが、あと100年は人口増加は避けられないでしょう。

そんな中、人類のなるべく多くの人が充足たる資源を得るためには、まずは現在の途上国の生活水準が向上することが重要だと思います。

そして一人あたりの資源の必要量を増やすことで出生率を下げ、100年単位の長いスパンで見たときに200~300年後に人口減少に向かい、最終的には地球という資源を全人類で最適に分配する。

それが「世界最適」なのかと。



・・・だいぶ壮大な話になりましたが、こんなことをつらつらと考えていました。

また半年くらい更新しないかもしれませんが、思い立ったら書こうと思います。

お久しぶりです。おおくまです。


会社としては3年振りに大きな展示会に出展しました。


5/11~5/13の“JAPAN IT WEEK”
弊社はクラウドコンピューティングEXPOに出展させていただきました。


おおくまは2日目の午前中と最終日の今日、フルでブース支援していました。

今日は天候にも恵まれ、3日間で最大来場者数だと思います。


さて、実はおおくま、こういった展示会は結構好きですし、わりと得意です。


特に“客引き”!!

別名「ナンパ」です(笑)


さすがに大きな展示会なので色々な企業が出展しています。
ブースも特徴様々ですが、

「人が集まるブース」と「集まらないブース」には明確に差があります。


もっと言えば、お客様をブースに引き込める人と引き込めない人です。


今日はそんな“展示会でのおおくま流ナンパ術”を伝授します。



■ブースに寄る気がある人を見極める


大きな展示会には色んなお客様がいらっしゃいます。
特に目的を定めずに情報収集に来る人、目的のブースをあらかじめ決めている人、取引先や競合他社の様子見に来る人・・・


こういった中で正確に見極めなければいけないのはずばり、
“声掛けられたら寄ってもいいかな”という人です。


なぜなら大きく顧客層を分けると3パターンだからです。


①声掛けなくてもブースに寄る人
②声掛けられたら寄ってもいいかなという人
③声掛けられても絶対寄らない人


①については放っておいても寄ってくれるので他の人に任せれば良いでしょう。
③については誰がアタックしても無駄です。

唯一、②だけが“ナンパ術”が有効なのです。


※もちろん、③まで引き込める人もいるかもしれませんが、強引に客引きしたときに会社の印象が悪くなるリスクやそもそものニーズの薄さなどを加味するとターゲットとしてあまり得策ではないでしょう。


・・・では、そのナンパ術とは。



■声掛けは喰らいつく


まず、一つ言っておきたいのは「ティッシュ配りになるな」ということです。


同じ場所から動かずに機械的に手だけくるくる回っている。
これでは工事現場の交通整理人形と同じです。


笑い事のようですが、実際展示会にはこんな人がいっぱいいます。
これではバイトで充分ですよね。


重要なのは「最低1メートルは喰らいつく」ということです。


・・・とはいっても通りかかる人すべてにやるわけではありません。


脇目もふらず歩いている人はターゲットから外し、なんとなく見回しながら歩いている人に絞ります。

とにかく一箇所に止まらず、常にお客様と1メートルは並走するのです。


つまり「声を発する」のではなく「声を掛ける」こと。
この違いが実は相当大きい。


これがステップ1です。


■質問を投げかける


次にどう声を掛けるか。


前述した「声を発する人」はだいたいこんな感じです。
「○○ご紹介しています!よろしくお願いします!」


これだと通りかかる人は自分に対して言われている意識がないので立ち止まることはありません。


なので1メートル喰らいついて
「○○ご紹介しています。●●や△△のときに使う製品です」


喰らいつくとわりと高確率でまずお客様が“振り向く”。


そしてすかさずこう聞く。
「○○ってご存知ですか?」


お客様に回答を求めることで「会話」になります。

これで「知らない」と言われてもOK。むしろWelcome。


「じゃあ少しだけ見ていきませんか?」


これでナンパ成功です。

あとはいかにお客様のニーズを引き出しながら製品を紹介できるかです。


おおくま流ナンパ術はこれだけです。


しかし、たったこれだけでお客様の反応が全然違います。

何より、本来寄るはずがなかったお客様を引きこむことができるので新規顧客である可能性が高くなります。


まあ、後は元気とか笑顔とか言葉遣いとかやるべきことをやるだけだと思います。


今後展示会のブースに出展する方がいれば、是非試してみてくださいね♪


くまくま~

今回の地震報道を見ていて、思ったことがある。

別に同意を求めるわけでもなく、何かと反応されるのも面倒だからひっそりとブログに書き残しておこう。

今回の地震で「日本人の良さを実感した」「日本が好きになった」的な意見が多かった。
それはたしかにその通りだと思う。

普通ならこの規模の地震が起きたらパニックで治安なんて一瞬で吹っ飛ぶだろうに、この助け合い精神や規律意識は立派だと思う。

しかし逆に嫌いになったのは被災地以外、特に首都圏に住む人々だ。


被災の安否確認のために電話回線をなるべく残さなければならないのに東電やマスコミにクレームの電話。

死ぬ思いでメルトダウンを防ぐため頑張っている福島原発の方への批判の声。

105時間寝ないで国民の最前線に立って対応していた枝野官房長官に対する心無い野次。

別に政府や政治を応援しているわけではないし、民主党が好きなわけでもないけど、単純に精一杯やっている人に対して文句や批判がよく言えるもんだと思う。

正直このクラスの災害は史上稀に見る事態だし、どんなカリスマ経営者でも完璧に切り抜けるなんて絶対無理だと思う。
批判している人たちに対して「じゃあお前やってみろ」と言いたい気持ちで一杯だ。


そして、とても嫌な気分になったのは生活用品の買い占め騒動だ。
(ドラッグストアに30分並んだ身としては、批判する資格は正直ないのだが・・・)

ただ、人間の本質が見えた気がしたのだ。
今回は特に、直接の被災地ではない東京で人間の汚い欲望が露呈したと思う。


例えば、人が不自由なく生きるために最低限必要な食料や資源の量を1とする。

我々は裕福なので、普段から常に一人あたり2程度の資源、つまり必要量の2倍の資源を持っているイメージだ。
普通は必要量の倍の資源があれば余裕を持って贅沢に生活することができる。

しかしこの大震災で、被災地の必要量は10人で6とか7程度の量になってしまった。
(不自由はするが餓死しない程度の量、というイメージ)

その状況下で被災地の人々は美しく分けあい、助け合い、なんとか生き延びている。


しかし東京はどうだ。

たしかに物流が止まり、電力供給が不十分になり、東京に出回る資源の絶対量は多少減ったと思う。

それにしてもおそらくは10人に対して15くらいはあると思うのだ。
(贅沢はできないが普通に暮らす分には問題ない程度の量、というイメージ)

人は全体の需要に対して絶対的に供給量が下回ると助けあおうという意識になるのだと思う。
多分それは少ない資源で生き延びるためのある種の本能なのだ。

しかし今まで贅沢していた生活水準が中途半端に「普通」レベルに落ちてしまうととても醜い本性が露呈する気がするのだ。

それはまさに10人に対しての供給量が14や15になったとき。
そう、「全体はどうせ助かるのだからせめて自分は少しでも他人より得してやろう」という意識が働く。

それがこの買い占め騒動に繋がったのではないだろうか。

結局買い占めた分は「必要以上の量」だ。
誰かの取り分を1にして自分が2を獲ろうとする卑しい奪い合いが始まる。

そうして買い占めた者はさも「自分はいち早く危険を察知して動いた賢い消費者だ」という顔になっていそうだ。
正直自分もそんな顔をしていたのかもしれない。
(現代風にいうと「ドヤ顔」というらしい)


つまり、結局はそうなのだ。


人間は
“自分の身の安全が100%保証された余裕のある、贅沢ができる状況”
もしくは
“自分の身の危険が100%わかっている危機的状況”
においてのみ理性的な判断をする。

前者は余裕があるから、後者は生き延びるために、だ。


今回の件でいえば、供給量12~18くらいの間で最も人間は醜くなると思った。

そして、自分もそんな醜い人間の一人であることを自覚し嫌になったので、せめてもの戒めとして、この日記に思考を残そうと思う次第だ。

こんな異常事態が落ち着き、一刻も早く余裕のある腐った日本社会に復旧することを願ってやまない。