今回の地震報道を見ていて、思ったことがある。

別に同意を求めるわけでもなく、何かと反応されるのも面倒だからひっそりとブログに書き残しておこう。

今回の地震で「日本人の良さを実感した」「日本が好きになった」的な意見が多かった。
それはたしかにその通りだと思う。

普通ならこの規模の地震が起きたらパニックで治安なんて一瞬で吹っ飛ぶだろうに、この助け合い精神や規律意識は立派だと思う。

しかし逆に嫌いになったのは被災地以外、特に首都圏に住む人々だ。


被災の安否確認のために電話回線をなるべく残さなければならないのに東電やマスコミにクレームの電話。

死ぬ思いでメルトダウンを防ぐため頑張っている福島原発の方への批判の声。

105時間寝ないで国民の最前線に立って対応していた枝野官房長官に対する心無い野次。

別に政府や政治を応援しているわけではないし、民主党が好きなわけでもないけど、単純に精一杯やっている人に対して文句や批判がよく言えるもんだと思う。

正直このクラスの災害は史上稀に見る事態だし、どんなカリスマ経営者でも完璧に切り抜けるなんて絶対無理だと思う。
批判している人たちに対して「じゃあお前やってみろ」と言いたい気持ちで一杯だ。


そして、とても嫌な気分になったのは生活用品の買い占め騒動だ。
(ドラッグストアに30分並んだ身としては、批判する資格は正直ないのだが・・・)

ただ、人間の本質が見えた気がしたのだ。
今回は特に、直接の被災地ではない東京で人間の汚い欲望が露呈したと思う。


例えば、人が不自由なく生きるために最低限必要な食料や資源の量を1とする。

我々は裕福なので、普段から常に一人あたり2程度の資源、つまり必要量の2倍の資源を持っているイメージだ。
普通は必要量の倍の資源があれば余裕を持って贅沢に生活することができる。

しかしこの大震災で、被災地の必要量は10人で6とか7程度の量になってしまった。
(不自由はするが餓死しない程度の量、というイメージ)

その状況下で被災地の人々は美しく分けあい、助け合い、なんとか生き延びている。


しかし東京はどうだ。

たしかに物流が止まり、電力供給が不十分になり、東京に出回る資源の絶対量は多少減ったと思う。

それにしてもおそらくは10人に対して15くらいはあると思うのだ。
(贅沢はできないが普通に暮らす分には問題ない程度の量、というイメージ)

人は全体の需要に対して絶対的に供給量が下回ると助けあおうという意識になるのだと思う。
多分それは少ない資源で生き延びるためのある種の本能なのだ。

しかし今まで贅沢していた生活水準が中途半端に「普通」レベルに落ちてしまうととても醜い本性が露呈する気がするのだ。

それはまさに10人に対しての供給量が14や15になったとき。
そう、「全体はどうせ助かるのだからせめて自分は少しでも他人より得してやろう」という意識が働く。

それがこの買い占め騒動に繋がったのではないだろうか。

結局買い占めた分は「必要以上の量」だ。
誰かの取り分を1にして自分が2を獲ろうとする卑しい奪い合いが始まる。

そうして買い占めた者はさも「自分はいち早く危険を察知して動いた賢い消費者だ」という顔になっていそうだ。
正直自分もそんな顔をしていたのかもしれない。
(現代風にいうと「ドヤ顔」というらしい)


つまり、結局はそうなのだ。


人間は
“自分の身の安全が100%保証された余裕のある、贅沢ができる状況”
もしくは
“自分の身の危険が100%わかっている危機的状況”
においてのみ理性的な判断をする。

前者は余裕があるから、後者は生き延びるために、だ。


今回の件でいえば、供給量12~18くらいの間で最も人間は醜くなると思った。

そして、自分もそんな醜い人間の一人であることを自覚し嫌になったので、せめてもの戒めとして、この日記に思考を残そうと思う次第だ。

こんな異常事態が落ち着き、一刻も早く余裕のある腐った日本社会に復旧することを願ってやまない。