信長は本当に秀吉のことを「猿」と呼んでいたのか? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。


仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。m(_ _)m


満を持して始まりました2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」。

初回は13.5%という順調な滑り出しで、その後も12〜13%台をキープと戦国好きが多いニーズの高さを感じさせてくれております。

その「豊臣兄弟」においても、小栗旬さんが演じる織田信長公が木下藤吉郎(のちの秀吉)のことを「猿」、「猿」と呼びまくっていますが、よくよく考えてみると、そもそも儀礼を重んじる武家社会で、いくら出自の不確かな家来とはいえ、仮に親しみを込めていたとしても、「猿」、「猿」と呼んでいたとは考えづらい。

では、本当のところはどうだったのでしょう?

結論から言うと、織田信長が豊臣秀吉(木下藤吉郎)のことを「猿」と呼んでいたという確かな史料(当時の手紙や日記など)は見つかっていません。

しかし、全くのデタラメかというとそうとも言い切れない、面白い背景があります。


​江戸時代に書かれた伝記(『太閤記』など)では、秀吉の容姿が猿に似ていたとして、信長が「猿、猿」と呼ぶシーンが定番化しました。しかし、これらは後世の創作である可能性が高いとされています。


​信長が秀吉を呼ぶ際に使ったことが確定している有名なあだ名は、別にあります。


​信長が秀吉の妻・ねね(おね)に宛てた有名な直筆の手紙(『織田信長自筆書状』)が残っています。その中で、信長は秀吉のことをこう表現しています。


「あのハゲネズミ(秀吉)が、あなたほどの素晴らしい女性に対して不満を抱くなんて、言語道断である」


この手紙は本物であると確認されているため、信長が親しみを込めて(あるいは呆れて)秀吉を「ハゲネズミ」と呼んでいたことは事実です。


ではなぜ、「猿」と呼ぶのが定着したのか?

​「猿」というあだ名が定着した理由はいくつか考えられます。


①容姿の印象:秀吉が小柄で機敏で顔立ちが猿に似ていたという記録は、当時の宣教師の報告などにも見られます。


②出世物語の演出:江戸時代の読み物(軍記物)において、農民から成り上がった秀吉をキャラクター化する際、「猿」という愛称が読者に分かりやすく、親しみやすかったためだと考えられています。


③申年(さるどし)生まれ説:秀吉が天文5年(1536)の申年生まれと自称していたことから、猿に結びつけられたという説。


ということで、実際に信長が秀吉のことを「猿」と呼んでいたというのは、後世の読み物や伝説さらには映画やテレビなどでも読者や視聴者に受け入れやすくするための演出だった可能性が高いということのようです。


でも、犬千代(前田利家)がいて、猿(秀吉)がいて、(小一郎はキジ役?)「犬猿の仲」だった二人が後々意気投合するっていうストーリーもある意味、悪くない。


そして、最後はタヌキ(家康)に全部持っていかれるっていうオチですかね、これは、、、。

 

昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。