天皇をありがたがっていたのは、「田舎武士」だけ?畿内の大名は厄介者扱い? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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伊達家と朝廷との結びつきを強めていったのは、かれこれ南北朝時代にさかのぼります。

 

伊達家の7代当主である伊達行朝(行宗)が後醍醐天皇による「建武の新政」で「奥州式評定衆」に任じられるなど、南朝方と深い関わりを持っていた時期がありました。

 

朝廷が分裂していた時期とはいえ、側近中の側近に取り立てられた分けですから、「頼りにされていた」、「信頼されていた」証なのでしょう。

 

その後、南北朝が統一され、室町幕府が確立されるにつれ、伊達家も幕府を通じて朝廷との関係を築くようになります。なぜなら、室町幕府の成立以降は武家が朝廷から官位を得るには、基本的に幕府の推挙が必要になったのです。伊達家の歴代当主も、将軍からの偏諱(へんき:将軍の名前の一字をもらうこと)を与えられたり、幕府の意向を受けて朝廷から官位(陸奥守など)を授与されたりしていました。これは、伊達家が室町将軍家との関係を重視していたことを示しています。

 

ちなみに「偏諱」の例を挙げますと、伊達家13代伊達尚宗は、当時の将軍・足利義尚から「尚」の字を、14代伊達稙宗(たねむね)は10代将軍足利義稙から「稙」の字を、15代伊達晴宗は12代将軍足利義晴から「晴」の字を、16代伊達輝宗は13代将軍足利義輝から「輝」の字をそれぞれ拝領しています。これは、伊達家が室町将軍家との関係を重視していたことを示します。

 

奥州における勢力拡大と支配体制の確立を目指す中で、領国の支配を正当化するために、朝廷からの官位を自家の権威付けに利用していたということのようです。

伊達稙宗(14代)公が奥州探題に就任したのなんかは、さぞかし箔が付いたことでしょう。

 

ところが、室町幕府=足利将軍家が全盛期だった3代義満以降は後継者争い&有力大名との確執&応仁の乱でもって、権威は失墜の一途をたどります。

 

当時の朝廷も経済的にはある意味、「幕府に養われている」的な立場にあったため、タッグパートナーの求心力低下により、朝廷の立場も怪しくなっていきました。

 

そこで、頼りにしたのが朝廷のプレミア感がまだ残る「遠国大名」。

 

奥野高広博士の卒業論文「皇室御経済史の研究」に、室町時代の大名の献金ランキングなるものがありまして、それによると第1位は織田信長で内裏の修理に40万疋(ひきと読む)でトップなのですが、これは一回こっきり。あとに続くのは、大内義隆、三好長慶、今川義元、朝倉貞景、有馬晴信、大友義鑑、と遠国の大名が多く、生涯の献金額では大内義隆が数万疋でトップとなっている。

 

一方で当時京都を占拠し、天皇を擁していた足利氏や細川氏の献金は雀の涙程度で、全くと言っていいほど天皇に有り難みを感じてはおらず、文亀二年の後柏原天皇の即位式では執政細川政元が、「即位式なんてお金の掛かるまどろっこしい儀式をやらなくとも、細川氏が認定すればOKなんじゃない」と虚礼廃止を宣言したんだとか。こうした細川氏の冷めた天皇観は、明応の政変における政治情勢と深く関わっていたようです。(明応の政変を知らない人はググってみてください)

 

まとめますと、傀儡政権に成り下がった末期の室町幕府は畿内の混乱を治めるのに必死で、権威だけの朝廷にかまっている余裕がなかった。一方で「腐っても鯛」ではありませんが、自国の領国経営を正当化し、権威に箔をつけるためには、朝廷に献金をして官位を賜り、家臣や領民を納得させる必要があった。(Win Winの関係だった分けなのです)

 

当時の朝廷にとって頼りになったのは、「都の支援者より遠くの田舎武士」だったのでしょう。

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。