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一般的にはどちらかというと、数字に疎(うと)い、数字が苦手という人が多いものです。
誰しも細かい数字を並べ立てられても、そもそも覚えていられないし、ピンとこないもの。
だが一方で仕事ができる人には「数字で考えること」や「数値化のクセをつけること」が共通していると言われていたりします。
歴史好きの方はとかく歴史上の登場人物であったり、どんな出来事であったりということに目が行きがちですが、ときには数字に着目してその偉大さに触れることも必要なのかもしれません。
今回は、仙台城の偉大さを数字をもとに紐解いてみることにいたしましょう。m(_ _)m
ではまずは、仙台城本丸から。
慶長5年(1600)12月、伊達政宗様は当時宮城郡に勢力を誇っていた国分氏の山城「千代城)の遺構を利用して、新城「仙台城」の築城に着手しました。
関ケ原の戦いは終わりましたが、上杉勢との緊張状態も意識した中で、山城を中心とした防御態勢に重きをおいた城郭構想となりました。
「奥州仙台城絵図」の記載によれば、仙台城本丸の規模は東西135間(1間=197センチなので約266メートル)南北147間(約290メートル)とあるので、面積にすると、266✕290=77,140平方メートル(2万3千坪)。よく換算に使われる東京ドームの面積が46,755平方メートルですから、77,140÷46,755=1.65となり東京ドーム約1.5個分の広さがあったということになります。ちなみに本丸は仙台城下から32間半(約64メートル)も山上にあったというのですから、徒歩で傾斜を登るハードワークは今も昔も変わりなかったことでしょう。
続いて、本丸北面の石垣について
傾斜が比較的緩やかな北側を防御する現在の石垣は延宝年間(1673~81)に築かれた切石布積の石垣を平成16年(2004)に修復完了したもので、高さ約17メートル、勾配70度
、全長は約179メートルに及びます。政宗様が築城した時は野面積みで勾配は48度程度の段石(2~3段に分けて築かれた石垣)であったと推定されているそうです。
僅かの間にずいぶんと石垣の加工技術も上がったんですね。
続いて二の丸。
寛永15年(1638)二代藩主伊達忠宗公は二の丸の普請に着手、「正保絵図」によりますと、東西172間(338メートル)南北111間(210メートル)=70,980平方メートル、坪に換算すると約2万坪ということになります。本丸と二の丸を合わせると、実に4万坪にもなります。いかに仙台城の規模が大きかったかが伺えます。
続いて大手門。
仙台城二の丸の東正面に建てられていた大手門は、1階の桁行65尺(約19.7メートル)梁間22尺3寸(約6.8メートル)高さ6間4尺(約12.5メートル)の規模を誇る2階建ての見事な楼門でしたが、昭和20年7月10日の仙台空襲で焼失しました。
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。