実際には誰も政宗様の顔を見ながら顔を書いた分けではない | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

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伊達政宗様のお姿として、よく目にする肖像画。

 

まず1つ目がこちら↓

 

こちらは15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする狩野派の狩野宗家を継いで、寛永年間(1624-44)に幕府の奥絵師として江戸で中橋狩野家をたてた狩野安信が延宝4(1676)年に先祖供養のために建てた祀堂(まつりどう)に掲げる目的で書かれたとされている伊達政宗様の肖像画。政宗様がこの世を去ったのが寛永13(1636)年ですから亡くなって40年後に書かれた肖像画ということになります。

 

そして、2つ目がこちら↓

 

こちらは政宗様の百五十回忌(没後149年)天明5年(1785)に合わせて書かれたものと推察され、土佐派の絵師、土佐光貞(1738~1806)によって7代当主伊達重村に似た面長の面貌で書かれたものとされている。(重村公に似せてって、7代目だよ)

 

つまり、いずれの肖像画も政宗様が亡くなって方や40年後、方や150年後ですから、よくよく考えると本人を見ながら書いたものではないということ。そして、当然政宗様のお顔の特徴を覚えている方が書いたときにご存命だったはずもない。そして、狩野派にしても土佐派にしてもこうした肖像画は流派の独特な描き方が代々受け継がれておりますので、極端な話誰の肖像画を書いたとしても、それっぽい肖像画が出来上がるということになるのです。

 

仮に政宗様にモデルになってもらって、絵師が描くことになったとして、そもそも大大名のご尊顔を拝することさえ恐れ多いのに、ましてやじっとしたまま◯時間もモデルをやってもらうことなどまずあり得ないことと言ってもいいでしょう。

 

ただあえて、唯一ご尊顔を拝したことがある人が特徴を作者に伝えた可能性が残されているのが

こちらの松島の瑞巌寺に残されている政宗様の木像。↓

 

なにしろこちらは正室だった愛姫様(養徳院)様が文禄の役の頃の政宗様をイメージして、慶安5年(貞応元年)(1652)の政宗様の十七回忌に瑞巌寺に奉納したものなので、ひょっとしたら伊達政宗様の顔の特徴を作者に伝えて(多少盛ってるかも?)作られた可能性があります。

 

政宗様の頭蓋骨をもとに最新技術を駆使して、顔を復元したということもありますので、現時点ではこちらが一番伊達政宗様の素顔に近いと言えるのかもしれません。↓

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。