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時は文禄元年(1592)年。あの日本史における最大のミステリーと言ってもいい「本能寺の変」からわずか10年後にまさか信長の配下の一武将だった秀吉が、日本国を飛び出し、海を渡って朝鮮や明国に戦を仕掛けるとは、誰しもが想定外の出来事だったと言えるだろう。
そんな天下無敵の太閤殿下に逆らえる命知らずの無鉄砲者がいるはずもなく、鶴の一声で決まった朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)。誰しもが「ばっかじゃないの!」と心の中では叫べども、声にすることはもちろん出来ないわけで(出したら首が飛ぶ)ありったけのため息をついて、秀吉が号令した京での馬揃え(今で言う軍事パレード)に我らが政宗様も上洛しました。
のちにこのときの伊達家の軍装が政宗様の「傾奇者」「伊達者」を物語る有名なエピソードとしして歴史に刻まれることになるのですが、今日はこのときの軍装をあらためて検証してみることに致しましょう。
このとき政宗様は、弱冠25歳。その様子は、次のようなものだったそうです。
幟(のぼり)には紺地に金の日の丸が描かれており、幟を持つ者は六糸緞(むりょう 中国から渡来した繻子(しゅす)の下着を身に着け、黒塗りの具足を着用していた。
具足の後ろと前には、金の星がデザインされていたそうで、黒と金が基調になっているのは、伊達家の軍装の特長でもある。実はこの紺地というのには深い意味がありまして、紺は「勝色」(かちいろ)といわれ縁起がよく、武将に好まれていた(実際は黒に近い藍色だった)。政宗様の朝鮮出兵にかける意気込みが現れています。
足軽の脇差の鞘(さや)には銀熨斗(ぎんいろののし)の装飾が施され、その形も特徴的であったという。刀の鞘は朱塗りで、太刀と変わりがなかったそうです。
騎馬武者30騎は、政宗様から拝領した具足を身に着け、彼らが身に着けた黒い母衣(鎧の背につける幅広の布)には、金の半月の図柄が描かれていたとのこと。
壮麗だったのは足軽や騎馬武者の軍装だけではなく、馬も同様であった。馬には、豹皮、虎皮、孔雀の尾、熊皮などの「馬鎧」を着用させるものもあったという。騎馬武者はその馬に乗り、金熨斗(きんのしつけ)の施された太刀の大小を腰に下げていた。
ここまでを検証してみると、黒を基調とした伊達家の戦装束を強調しつつ、ところどころに金や銀に朱色という動きが伴うことで映える色を散りばめている印象があります。
また、特徴的なのが騎馬武者だけではなく馬にもかなりの装飾を施しているあたりが政宗様コーディネートのきめ細かさだったりするのです。(お金掛かっただろうね)
そして、何より壮観だったのが、配下の遠藤宗信と原田宗時なのです。この2人は普通通り刀・脇差を腰に下げ、さらに1間半(約2.7メートル)もある木の太刀を身に着けていました。
木の太刀の真ん中あたりには金物が打ち付けられ、金の鎖で肩から吊り下げていた。当然、木の太刀は実用的なものではなく、装飾的な意味合いが強かったのでしょう。(ここまでやるか、政宗様コーデ)
実はこのとき、徳川、前田、佐竹、上杉といった錚々たる大名も行軍をしていたのですが、あまり代わり映えしなかったので、見物人たちはさほど驚かなかったそうです。
しかし、政宗様の一行が登場すると、群衆は賛美の言葉を口々にし、ほかの会話が聞こえないほどの喧騒ぶりであったと伝えられている。以来、「伊達者」という言葉が定着したといわれています。
京の民衆の頭の中には、当たり前の鎧兜に身を包んだ勇ましい武者姿の行軍が浮かんだはず。
そこであえて、意表を突いた政宗様コーディネートの戦装束パリ・コレクション。
今も昔も人間って、自分の中に持っている固定観念をぶち破られると、脳内に革命が起こる。
そして、革命のきっかけを与えてくれた対象に熱狂する。
ひょっとして政宗様はそういうところまで、計算していたのかもしれませんね。(^^)
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。