紫式部が亡き夫への想いを詠んだ歌枕が、仙台市の隣の隣に。 | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

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今年も仙台城ガイドボランティア会および当会のブログ、「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」をよろしくお願い致します。

 

さて、新年最初のブログは1月7日(日)からスタートします今年の大河ドラマ「光る君へ」にまつわる話からしていくことにしましょう。

 

「え、なんで?仙台城と紫式部や源氏物語は関係ないのでは?」

 

そうお思いの方もいるかもしれません。確かに仙台城や伊達政宗とは関係がないかもしれませんが、宮城県の仙台市の隣の隣にある塩竈(しおがま)市が紫式部と深いつながりがあるということをご存知でしたか?

 

源氏物語はだいたい寛弘5(1008)年から寛弘7(1010)年頃に成立したと言われています。

今から1,000年以上も前に書かれた日本の文学作品がいまだに読み続けられているというだけでも凄いことなのですが、これを400字詰め原稿用紙に換算すると約2,400枚でおよそ100万字。

こんなにハンパない超大作をたった1人の女性が書き上げたというのにも驚きです。

 

なのに「紫式部」は本名ではないのです。朝廷に仕えていた女官を「女房」と読んでいたのですが、宮仕えをする女官に付けられた呼称が「女房名」と言いまして、「紫式部」の場合、お父さんが藤原為時で式部省という役所に勤めていたので”藤原姓”+”式部”でもともとは「藤式部」と呼ばれていたんですけど、のちに「源氏物語」が大ブレイクしたので、登場人物の「紫上」(若紫)にちなんで紫式部と呼ばれるようになったという説が有力なんだとか。(大河ドラマでは”まひろ”という名前が付けられています)

 

ちなみに、同じ時代の「枕草子」の作者である「清少納言」は名字が”清原”なので、”清”。と”少納言”は官職の一つなのですが、身内にその官位だった人は見当たらないので、どうして”少納言”なのかは諸説ありますが分かっていません。

 

さて、この紫式部。20歳も年上の藤原宣孝人と結婚をします。結婚といいましても、すでにこの方には正妻の他に複数の愛妾がおり、子供が5人もいました。(平安時代スタンダード)

彼女は彼の猛烈な求婚に躊躇しましたが、お父さんの転勤先での田舎暮らしと婚期が遅れてしまったことも相まって、結婚を承諾します。

 

仲睦まじく新婚生活(昔は正妻は同居するけど、妾は通い婚でした)をスタートした二人。

翌年には長女”賢子”が誕生します。順風満帆に思われた夫婦生活でしたが、これが一転します。

結婚から3年が過ぎた長保3(1001)年に夫の宣孝が流行り病で亡くなってしまいます。

 

◯番目の妻であり、女好きの夫ではありましたが、愛娘も授かりいざこれからというときの夫の突然の死。紫式部の悲しみはいかばかりだったことでしょう。

 

そんな悲しみくれていた彼女が詠んだ新古今和歌集の和歌がこちらです。

 

「みし人の 煙になりし夕べより なぞむつまじき しほがま(塩竈)の浦」

 

現代語訳はこちらです。

 

親しかったあの人が煙となって消えてしまった夕方以降、「睦まじ」という音に通う「陸奥(むつ)」の国の「塩釜の浦」でたなびく、塩焼きの煙までもが慕わしく感じらようになりました。

 

わかりやすくいいますと、陸奥国の塩竈で海藻から塩を採ることは京の都でもよく知られていることで、”仲睦まじい”の”睦”と塩竈のある”陸奥の国”を掛けて、さらに荼毘(だび)に付された

あの人の煙と塩焼きの煙をさらにWで掛けているという高等なテクニックを駆使して、自分の哀しみを表現しているという分けなのです。

 

宮城県に訪れた際には、亡き夫への想いの歌枕となった塩竈を訪れて、和歌が刻まれた石碑が「鹽竈海道」と呼ばれる通りにあるそうなので、探してみては?

 

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。