いにしえの時代から、上下関係は色分けされていた!「官位と服色」について考える | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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今日は昔の偉い人たちは、位によって身につける装束の色が決められていたという話をしていきたいと思います。

 

律令国家の成立に伴って、天皇に仕える官職者の上下関係を誰が見ても分かるように識別する方法はないだろうか?

 

隋の国の制度にヒントを得て、聖徳太子(厩戸皇子)が考案したのが日本で始めて採用された官位・位階である有名な「冠位十二階」なのです。

 

朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す色別に分けた冠を授けるというひじょうに画期的なアイデアだったのです。上から順に(①~⑫)

 

①大徳=濃紫 ②小徳=薄紫 ③=大仁=濃青 ④小仁=薄青 ⑤大礼=濃赤 ⑥小礼=薄赤 ⑦大信=濃黄 ⑧小信=薄黄 ⑨=大義=濃白 ⑩小義=薄白 ⑪大智=濃黒 ⑫小智=薄黒

 

この制度は変遷を経て、平安時代にはほぼ確立し「位袍(いほう)」=官位相当の位色による朝服の袍、「袍色」と呼ばれるようになりました。

 

天皇だけが身に付けることが出来る色が黄櫨染(こうろぜん)とよばれる黄土色。これは、平安時代の初期に白からこの色に定められました。

 

皇太子(東宮)はオレンジで、最初のうちは官位が高い方から濃い紫、薄い紫、濃い赤、薄い赤、濃い緑、薄い緑、濃い青、薄い青というふうに「色が濃い方が偉い!」という厳格なルールを決めたまでは良かったのですが、そもそも紫の濃い、薄い、青の濃い、薄い、黒の濃い、薄い

なんて見分けがつかない。中には自分を少しでも高い位に見せようとして、わざと濃い目の色を多めに使う不届き者が横行する始末。しかも当時、紫に染めるというのが材料技法ともに容易ではなかった(合成染料や合成顔料がなかった江戸時代まで、衣類を紫色に染めるには、貴重な紫草の根が大量に必要であったため大きなコストが必要とされました)こともあり、藤原時代の摂関期以降は紫から黒に統一したり(四位以上は等しく黒)、濃い薄いでの識別はほどほどにというルールになったようです。

 

今でも毎年春は4月29日、秋は11月3日に褒賞(叙勲)が行われていますが、これが聖徳太子が残した冠位十二階の名残なのかもしれませんね。

 

「紅綬褒章・緑綬褒章・黄綬褒章・紫綬褒章・藍綬褒章・紺綬褒章」

 

伊達の軍勢の戦装束は政宗様の頃から「黒」に統一されました。

これは、隻眼の唐の武人「李克用」の鴉(からす)の軍に習ってと伝えられていますが、

ひょっとして、政宗様は戦場でも高貴な色を意識していたのかもしれませんよ。(^^)

さあ、あなたは何色が好きですか?

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。