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さて、先週から始まりました「どうする家康」との勝手にコラボ企画、「どうする?政宗」
今回は政宗様の若気の至りといいますか、父輝宗様を死に追いやった要因となった畠山義継への憎悪に端を発した二本松攻めからの”人取橋の戦い”について語ってみたいと思います。
前回の「どうする?政宗」から追って行きますと、父輝宗様が非業の死を遂げ、弔い合戦に気が早っていた政宗様は怒りのパワーと力技で二本松に攻め込みますが、畠山家が篭城戦に持ち込み、戦況は膠着状態となります。
その間に、周辺の大名のほとんどは迷うことなく畠山家に味方することを決めます。
なぜかと言いますと、政宗様の小手森城の撫で斬りという行為に不信感を募らせていた他の勢力(佐竹・蘆名・相馬・岩城・石川・白川・二階堂)たちが、打倒政宗の方針に一致したのです。
「政宗、あんな危ないヤツは葬るしかない!」ということで反政宗連合軍が結成されました。
かくして、天正13年11月17日(1586年1月6日)、阿武隈川の支流にかかる人取橋付近で伊達軍V反政宗連合軍が激突しました。
その時の両軍の兵力には諸説あり、伊達郡7,800対連合軍35,000または伊達郡7,000対連合軍30,000などおおよそ政宗様の軍勢が4倍以上の敵を迎え撃つことになったと伝えられています。
”兵力差4倍”
”四面楚歌の状況”
「どうする?政宗」
圧倒的な兵力差ですから、もちろん伊達家が劣勢です。
戦闘は連合軍優勢のまま、展開します。
一時は伊達家の本陣まで敵が侵入し、政宗様自身も鎧に矢1筋・銃弾5発を受けるという最大のピンチに陥ります。しかし、ここで伊達軍は勝敗度返しで兎にも角にも政宗様を無事に逃がすという作戦を敢行します。
重臣・鬼庭左月(大河ドラマ独眼竜政宗ではいかりや長介さんが演じていました)が老体に鞭打って殿(しんがり)を務め、最期は、自ら敵中に入って壮絶な討ち死にを遂げます。
政宗の従弟・伊達成実(しげざね)は少し離れたところにいて挟み撃ちに遭いながら、後退せずその場で敵を迎撃し、政宗様が逃げる時間を作りました。
伊達軍の疲労度はMAXで、壊滅は時間の問題かと思われました。
しかし、ここで”サスペンスデッド”(日没のため続行不可能)。そう、当時の戦は状況にもよりますが、基本的には日が暮れてしまうと、敵味方の判別が難しいため休戦し、翌日再開となるのが一般的でした。
このまま朝を迎えたら、明日は討ち死にか!?
伊達軍は眠れぬ夜を過ごします。
しかし、ここで奇跡が起きます。
この日の夜、佐竹家の部将が陣中で家臣に刺殺されるという事件が発生し、さらには本国に北条方が攻め寄せるとの報が入ったため、佐竹軍は急遽撤退を決定します。連合軍の他の軍勢も主力の佐竹軍が撤退したことで、戦闘意欲が減退し、潮が引くように軍勢を退かせました。
後年、佐竹氏の撤退については政宗様による裏工作があったのでは?との説もあります。
こうして、九死に一生を得た政宗様、そして伊達軍。
この場所、現在は福島県本宮市に「人取橋古戦場跡」として、残されています。
さあ、あなたがもし政宗様だったら、どうする?
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。