新年明けまして おめでとうございます。
2023年も仙台城ガイドボランティア会のブログ「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」をよろしくお願い致します。
さて、先週1/8(日)からスタートした今年の大河ドラマといえば「どうする家康」。
初回平均世帯視聴率が関東地区で15・4%(速報値)と前作の「鎌倉殿の13人」の初回の17・3%を下回ったものの、同時間帯ではトップと好発進のご様子。
なんでも、ツイッターでは「#どうする家康」が放送中に世界トレンド1位を獲得したそうで、大きな注目を集めていたようです。
まあ、江戸に幕府を開き、約260年の平和の世の基を築いた東照大権現こと神君家康公ですから、そこに至るまでには並々ならぬご苦悩があったんでしょう。
でも、生き馬の目を抜くような過酷な戦国の世であれば、「どうする?」という究極の選択を迫られたエピソードは、別に家康様の専売特許だった分けではない。
むしろ、我らが伊達政宗様にだって、家康様に負けず劣らずな「どうする?」という場面があったはず。(何と言っても、日本一の伊達男ですから)
なので、今年の大河ドラマ「どうする家康」にあやかって、「どうする?政宗」と題しまして、その辺のところを紐解いて行きたいと思います。
ただし、先にお断りをしておきますが、歴史研究の凄まじい進歩により、1987年の大河ドラマ「独眼竜政宗」などで演じられた当時の定説に基づく内容も、昨今では別な説が飛び交い、その確からしさは、誠に時代考証を難しいものにしております。
なので、文中に「諸説あり」と書かせて頂きますので、その点はご理解ください。
第1回目の「どうする?政宗」は、天正13年10月8日(1585年11月29日)の
畠山義継に父輝宗が拉致された 「どうする?政宗」です。
これは大河ドラマ「独眼竜政宗」でも、大変インパクトの強いシーンとして有名です。
二本松城主だった畠山義継が政宗様から攻撃をされた際、潔く降伏をしますが、政宗様はここで畠山に舐められてはいけない(?)と和睦の条件として領地のほとんどを没収し、わずかに居住地であった二本松を残すだけという大変厳しい沙汰を下しました。
政宗様が畠山の降伏臣従を認めた数日後、畠山義継は政宗様の父上である輝宗様を訪ね、仲介の労をとってくれたことへの礼を述べます。 そして立ち去ろうとしたところ、いきなり輝宗様を拉致し、馬に乗せて20数人の家臣とともに二本松城に向けて走り出すという、今で言うところの「自爆テロ」を敢行しました。
これには政宗様も寝耳に水の驚きです。 知らせを受けた時、政宗様は鷹狩の最中であったと言われていますが、取るものもとりあえず一行を追います。輝宗様が連れ去られれば敵方の人質となり、政宗様は面目を失うばかりか、敵方に重要なカードを握られることになります。ここで、政宗様の耳に、父輝宗の叫び声が聞こえました。
「政宗、わしもろとも討ち果たせっ」
「どうする?政宗」
苦渋の決断を迫られた政宗様は断腸の思いで一斉射撃を命じます。
伊達隊の鉄砲は畠山主従を殲滅しますが、畠山義継は脇差で拉致した輝宗様を刺し殺し、二人とも馬から落ちたと言われています。
こうして、畠山義継以下二本松勢50余名は伊達勢に襲撃され討ち果たされましたが、自分が最も信頼してくれていた父輝宗様を、敵もろとも討たねばならなかった政宗様。
その時の悲しみはいかばかりだったことでしょう。
なお、この世にいう「粟ノ巣の変」には諸説ありまして、
父輝宗様が自分を犠牲にして敵を倒せと命じたという説や政宗様が戦いを仕掛けてくると知った畠山義継が、人質の意味をなさなくなった輝宗様を刺殺したという説、鷹狩中であった政宗様が一報を受け現場に到着した時には既に全てが終わっていたという説などがあります。
その夜、輝宗様の亡骸は小浜へと連れ帰られ、畠山義継の亡骸はずたずたに斬られ、藤にて貫ぬかれ磔にされたとされています。
「粟ノ巣の変」のあった場所は現在でも「粟ノ須古戦場」として、今に語り継がれています。
さあ、あなたがもし政宗様だったら、どうする?
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。