政宗様がひょっとすると討ち取られていたかも? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

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若気の至りという言葉があります。

 戦国武将にも血気盛んな時期というのがありまして、仮に大軍を率いる将だったとしても、軍勢の士気を鼓舞するため、若しくははやる自分の気持ちを抑えきれずに戦の最前線に繰り出す、なんてことが稀にあったりします。

大将の首が討ち取られてしまったら、桶狭間の戦いのように「THE・END」となる分けですからあってはならないタブーなこと。ところが、我らが政宗様にも一歩間違えば、そうなっていたかもしれない重大なピンチが実は、あったのです。

時は戦国、関ケ原の戦いの頃、折しも東北では東軍に与する伊達政宗様と最上義光らは、直江兼続率いる上杉軍との長谷堂城争奪戦を繰り広げていましたが、関ヶ原の東軍勝利の一報が入った以上、上杉軍は撤退するしかありませんでした。

関ケ原の戦い以前から上杉方の白石城を攻略したりして、家康からも、勝利のあかつきには苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井など旧領7ヶ所=50万石加増の約束するという「百万石のお墨付き」を得ていた政宗様は、ここで少々調子に乗ってしまいます。

本来であれば、徳川家康VS石田三成の優勝決定戦の決着が付いた以上、その後のことは家康様のご沙汰を大人しく待っていなければいけない立場。うかつに行動を起こして、家康様の勘気を被ってしまったら、全てが水の泡になる。とは、当時の政宗様は考えなかったんでしょうな。

かくして慶長六年(1601年)4月26日、関ヶ原の戦いでの東軍勝利に乗じて福島へと南下する伊達政宗様の軍勢と上杉景勝の軍とが戦った松川の戦いが始まってしまいます。

福島県から宮城県へと流れて仙台平野に至る阿武隈川の支流である松川は、当時は信夫山の南側を流れており、上杉領と伊達領の境目であった事から、この時は本庄繁長のほかに、上杉配下の甘糟景継、岡定俊らなど約5000の兵が警備をしていました。

そこに、国見峠を越え、信夫郡から瀬ノ上の川を渡って上杉の城となっている梁川城(やながわじょう)に約5,000を向かわせた伊達政宗様の軍勢が、松川を目指して押し寄せます。

その戦の最中、上杉軍の岡定俊に馬で駆け寄せて、2太刀ほど岡に斬りつけて来た武将「ミスターX」がいました。岡定俊は振り返って、その武将の兜から鞍にかけて真向から斬りつけ、返す刀で兜の錣(しころ)を切り払い、相手の右膝口に斬りかかると、敵の馬が飛んで退きました。

その武将の甲冑が大した見た目では無かったので、岡定俊は、さらに追い詰める事無く退きましたが、実はこの武将「ミスターX」が、伊達政宗様本人だったと記されているのです。

後に、これを聞いた岡定俊は「もう一太刀で、大将を討ち取れたのに~」とめっちゃ悔しがったのだとか、、、。

こうして一進一退の激戦が続く中、予想以上に多い伊達勢がその後ろから重なるように攻め寄せて来たので、やむなく上杉勢は福島城に退きあげようとしますが、政宗様は「どこまでも逃すな~」と「ガンガン行こうぜ!」命令を出します。

そのスピードに、持って逃げられない武具を打ち捨てて後退する上杉軍。

この時、上杉軍の殿(しんがり)を務めた青木新兵衛なる武将は、小さな馬に乗り、短い槍を持っていた事から、その小回り利く状況を活かし、取って返しては突きはらい、何度も敵を防ぎます。やがて、伊達勢が押し寄せて来たので城の門を閉じてしまったため、青木は、ただ一騎で迎え撃つ事になってしまいます。

そんな青木に馬で駆け寄ったのがこれまた政宗様!?

青木は十文字の槍で以って政宗様の三日月の前立てを突き折りますが、政宗様は青木の鎧を蹴って、そのまま駆け過ぎて行きます。

「もう、一突きで討てたのに…口惜しい」とまたまた悔しがる武将がここにもう一人。

後々、岡定俊と再会した政宗様は、松川での思い出話を語りはじめて、「お前を斬った事、今も忘れてないぞ!」と政宗様が言うと、岡定俊も、「大将の刀の跡ですから、金糸で縫い合わせて、我が家宝としてます」と言って、その羽織を見せたところ、政宗様は大いに喜んだのだそうですが、続けて、「そのあと、兜の錣をなぐり切りにしましたよね」と岡が言うと、政宗様は不機嫌そうにその場を立ち去られたそうです。

ヒヤリハットはほどほどに、何事も無理は禁物というお話でした。m(_ _)m

いやーもし、討ち取られてしまっていたら、どうなっていたんだろう今の仙台市&宮城県。


※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。