ひょっとすると、伊達家から将軍が出ていたかも!? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。m(_ _)m

 

お題を見て、「いや~さすがにそれはないんじゃないの?」と思われた方も多いでしょう。

でも、ちょっと風向きが変われば実際にあったのかもしれない話なのです。
時は現在進行中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の頃のお話です。
 
伊達家の始祖(初代)はと言えば「伊達朝宗」ですが、実はこの人鎌倉幕府創設者である源頼朝さんのいとこにあたります。

朝宗さんのお母さんが頼朝の祖父の源為義の娘だったのです。
(朝宗のお母さんと頼朝のお父さんは兄弟なんです)

なので、母方つながりのいとこということになります。
(源氏の通名である「朝」もを頂いている)

さらに、この朝宗の娘(大進の局)がいたんですが、な、なんとあの鎌倉殿こと源頼朝の側室になってしまうのであります。(頼朝は政子が怖かったのに、色好みだったらしく)

大進の局は頼朝との間に子供(男)まで生んでいる、名前を貞暁(じょうぎょう)と言った。

北条政子と言えば、嫉妬深いことは「鎌倉殿の~」でもうご存じですよね。(小池栄子さんの政子っぷりは見事です)

当然、生まれた貞暁君は政子の目をはばかって育てられ、幼くして出家し京都の仁和寺に入りました。

鎌倉幕府2代将軍頼家の時、1208年に朝宗の息子で伊達家2代目宗村が密かにこの仁和寺の貞暁君を「次期将軍」に就けようと謀ったのですが、小栗旬演じる執権北条義時に露見して失敗。宗村は身を隠し、貞暁君も高野山に逃れました。

この時、もしこのクーデターが成功していたら3代将軍は伊達家の血を継ぐ者だったのかもしれない。(今も昔も伊達家の血筋はギャンブラーが多いなあ、、。(-_-;)

これで、伊達家からの将軍デビューの夢は潰えたと思われた。

 しかし、人生とは不思議なもので、望むときには手に入らないのに、望まずに心穏やかに過ごしているときに、思いもかけないサプライズが降ってくる時があるもので。

 

この事件の10年後の1218年、あの尼将軍北条政子が突如として、頼朝の妾の子である貞暁君に次の将軍になってくれるようにと懇願する。

すでに1204年には3代将軍は源実朝が継いでいたのだけれど、京に憧れていて(後鳥羽天皇とも懇意だったし)、歌人としての方が有名な実朝さんですから、幕府の行く末を案じた政子は密かに次の策を練っていたんですかね。

結局、貞暁君はそれをお受けすることなく丁重にお断りをします。

こうして、伊達家の2回目の将軍へのチャンスは消えた。

しかし、よーく考えてみましょう。仮に将軍になったとしても小栗旬と小池栄子さん(北条政子と執権の北条義時ね)の操り人形では「名ばかり将軍」で、いいように利用されていずれ使い捨てにされたことでしょう。

その後、伊達家はクーデター未遂も赦されて本領の伊達領に戻ったそうです。

それから伊達政宗様へと伊達家ヒストリーが続くことになるわけです。

今の仙台(宮城県)があるのは、我らが伊達政宗様のおかげ。

そういう意味では、将軍にならないで大正解だったのでは!?!(^^)!

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。