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「窮鳥(きゅうちょう)、懐に入れば猟師もこれを殺さず」と言う言葉をご存じでしょうか?
最初に意味を簡単に説明をしますと、「窮地に陥ったものが助けを求めて来たら、どんな理由があろうとも助けてあげるものだ。」という意味になります。「窮鳥」っていうのは追われて逃げてきた鳥のことです。
実は、伊達家の因縁のライバル相馬家との間にこんなエピソードがありました。
時は慶長五年(1600年)5月、関ヶ原の戦いの4か月前になります。徳川家康は上杉景勝討伐の命を下して、(ほとんど言い掛かりみたいなもんですが)伊達政宗様に対し、上杉に対する搦(からめ)手(背後から攻めること)の戦をするように命令を出しました。
7/12に政宗様は大坂を立ち、中山道から上野、下野、常陸を通り、相馬領に入ります。奥州道は上杉領なので通ることが出来なかったです。その時政宗の手勢は僅かに50騎。長年に渡って抗争を繰り広げてきた因縁の相馬氏の領地を通らなければ、伊達領にはすんなり帰れない。そこで、政宗様は相馬氏の中村城へ使者を遣わし、城下に一泊したいと申し入れた。
「飛んで火にいる夏の虫」、「政宗なんか真夜中に夜襲を掛けて、討ち取っちゃいましょう」
相馬家中はそんな意見で大盛り上がり!(そりゃあ、そうなるわな)ところが、ただ一人この意見に「ちょっと待った!」を掛けた人物がいました。それが、「水谷四郎兵衛」彼は、こう発言した。「この中村城下から伊達領との国境駒ヶ嶺までわずか二里(約8キロ)足らず、一泊せずとも伊達領に入れます。何か魂胆があるのではないでしょうか?〝 窮鳥、懐に入れば猟師もこれを殺さず ″との例えもあります。まず、今日のところは、丁重に客人として遇した方がよいと存じます。」
ここで、冒頭の言葉が出て来ます。その時の政宗様一行はまさに「窮鳥」だったんですね。
この意見を聞いた、相馬義胤(よしたね)は、「確かに、もっともな意見だ。」と言って、政宗様の襲撃作戦は中止となりました。
この時の政宗様一行の馳走役は、この水谷さんが務めることになりました。
次の日、政宗様一行は相馬家に感謝の意を表わして、そそくさと相馬領を後にした。その直後、相馬方の物見(偵察部隊)から国境付近の駒ヶ嶺におびただしい数の伊達軍が伏せてあったとの知らせが入り、相馬義胤以下家臣は肝を冷やしたという。
(これって、もしものことがあったら相馬を攻め滅ぼす気でいたってことなんですかね)
それから2か月後、皆さんの知っている関ヶ原の戦いが行われまして、相馬氏は中立の立場を取っていたのですが、西軍に加担したと見なされて、お取り潰しにはならないけれど転封・減封の処分となりました。
フツーなら天下人の徳川家康への忖度を考えれば、異論を唱える者などいるはずがなかった。
ところが、この風前の灯火の相馬家に助け船を出した人物がいた。
誰あろう、我らが伊達政宗様その人なのです。
政宗様は家康の側近に対して、「相馬家は祖父の代より仲の悪い敵同士でありましたが、この前の関ヶ原の戦の時に、難儀していた我が軍勢を休ませてくれたうえに、手厚くもてなしてくれました。この姿勢は、三成にも上杉にも味方していないってことは明らかでしょう!」と弁護しました。
その結果、家康は相馬家に対し相馬三郡六万石の所領安堵を許可したのです。
なんとも聞くも涙、語るも涙の話ですこと。
お互い敵同士な分けですから、相馬氏側からしたら泊めなくてもいいし、泊めて討ち取るという選択肢もあった。政宗様側からすれば、その後相馬氏がピンチに陥っても、見て見ぬフリをしても何の問題もなかった。
でも、お互いにそれをしなかった。政宗様に至っては、時の天下人に対して全力で相馬の弁護に回った。
ここまで来ると、もう「走れメロス」のメロスとセリヌンティウスのような関係ですね。
借りは必ず返す!鶴の恩返しならぬ「政宗の恩返し」っていうか、「水谷四郎兵衛」さんにあっぱれをあげてください。
世知辛い世の中と言われる昨今ですが、人と人との関係とはかくありたいものです。!(^^)!
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。