仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。m(_ _)m
さて、今日も伊達政宗にまつわるトリビアな話を紐解いていくことにしましょうか。
慶長11年(1606)に江戸城の本丸、二の丸、三の丸が完成し、慶長12年には五層の天守閣が完成。
もう、これは質素で謙虚な家康公でも、「えっへん、どうだい!こんな立派なお城見たことある?」と自慢をしたくなるものでした。
ある時、家康公は江戸城の総構図を伊達政宗様に見せて、得意気に聞きました。
「そちだったら、この城をどう攻める?」
もったいぶることなく、政宗様は即座に答えます。
「それがしならば、此処から攻めまする。」と、江戸城の東北側に位置する「御茶水」の台地を指差し、「この高台に大砲を備え付け、江戸城に向けて砲弾を放たせます」と。恐らく家康公は政宗様の言葉にさぞ、肝を冷やしたことでしょう。
実際、御茶水から江戸城大手門までは、約1700メートルしかなく、大砲の射程距離だったのです。
さすがは、我らが伊達政宗様!日本一の伊達男は、実は戦略家としても十分に秀でていたのであります。この一言がきっかけになったのか、2代将軍秀忠公は江戸城東北側の備えとして、「御茶水」の南側に位置する神田山を堀削し、外堀とする工事を行っているのです。
その外堀の工事はその後も継続され、万治3年(1660)に仙台藩は4代将軍徳川家綱公により、小石川掘りの浚渫工事を命じられます。この時の仙台藩主って誰なの?はい、この時の仙台藩主があの「伊達騒動」の張本人(!?)とも言われる3代藩主「伊達綱宗」様その人なのですね。
彼が「名君」だったのか「迷君」だったのかは、皆さんに下駄を預けるとしまして、要はこの綱宗様が小石川堀の普請工事の見廻りに行くついでに始めた「吉原通い」にのめり込み、結果として「強制隠居」→「幼君誕生」→「専横政治」→「伊達騒動」につながったのではないかという見方があります。
だとすると事の発端って実は、政宗様が徳川家康の内角をえぐるようなあの発言が引き金だったということも言えなくも無かったりするのです。
思えば、あの時家康公の問い掛けに軍事センスを発揮して正直に答えてしまった政宗。
まさかそれが、、、。(-_-;)
直接ではないけれど、伊達家がおとり潰しになるかもしれないほどの大問題に発展するとはさすがにその時は思わなかったでしょうね。これだから、世の中って分からない。人生万事塞翁が馬とはよく言ったものです。
ちなみに、現在の水道橋から御茶ノ水に掛けて両岸絶壁がそそり立つような堀の名を、仙台藩が普請したことから、「仙台堀」と呼ばれているそうです。近くに行く機会がありましたら、ぜひご覧になって見てください。「おー、これが例のあれなんだね~。」と心の中で「ニヤリ」と悦に入ってくださいませ。!(^^)!
フィリップ・チェスターフィールドの名言に次のようなものがあります。
「出来れば人より賢くなりなさい。しかし、それを人に知らせてはいけない。」
「迷君」のフリをした方が「名君」?
でも、日本一の伊達男政宗様には、そういうの似合わないですよね。(^^ゞ
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。