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陸奥国にそびえる天下無双の城として、政宗様が築いた仙台城。
今となっては、兵(つわもの)どもが夢の跡。政宗様の騎馬像だけが一際存在感を放ってはおりますが、それ以外の遺構というと、う~ん大広間跡に石垣でしょうか。
本当であれば、艮(うしとら)櫓を含めた5つの立派な櫓があったのに、、、。(-_-;)
だけど、仙台城にもちゃ~んとお城はあったんです。
仙台城は本丸と二の丸と三の丸から構成されていたんですが、もっぱらまつりごと(政治の事ね)をする中心は伊達政宗亡き後は、二の丸が中心となりました。
(だって、政宗様があんまり堅牢な本丸を作ったので平時には不向きだったんですね)
明治維新になり、「廃城令」が1873年(明治6年)に発布され、日本全国にあったお城が風前の灯火にさらされることとなりました。近代的な国家を目指す明治新政府としては、古めかしいお城の存在はただただ「徳川の世」を思い起こさせる目障りな存在に映ったのです。
そして、廃城令において、「存城」と「廃城」に仕分けされます。
実は仙台城は、初めは「存城」処分だった。
つまり、最初から「廃城」というレッテルを貼られた分けではなかったんです。
しかし、先に述べたように中心は二の丸でしたので、二の丸の跡地を陸軍の第二師団の駐留場所として有効活用され、本丸はあまり重要視はされていなかった。
そこで、こんな動きになってしまう。
仙台の榴ヶ岡(仙台サンプラザがある辺り)に陸軍の歩兵第四連隊の兵舎を作ることになります。しかし、建築資材が足りない。そこで、あまり使われていなかった本丸御殿の一部を転用しようという話が持ち上がります。
こうして、仙台城の本丸にあった建築物は取り壊され、一部は兵舎の資材に用いられます。明治5年~7年頃に破却されたと伝えられています。
当時は、文化財として由緒ある建物を保存しようといる考えよりも、お国のため、軍隊のためという考え方が優先でした、なんとも皮肉な話です。
何も無くなった仙台城本丸に明治9年6月26日、明治天皇が奥羽巡幸の途中に訪れます。
当時の県令(今の県知事)宮城時亮に明治天皇が、こう尋ねたそうです。
「仙台城は名城と聞いたが、その後どうなったか?」
しかし、その時はすでに取り壊されていた仙台城、本丸。
明治天皇が天守台から仙台市街を一望し、取り壊しの経過を県令から聞いて一言
「あやまちなり。」と嘆かれたのだそうです。
ああ、無念。もう少し早く訪れて頂いて、「この城を残せ!」のお言葉を頂けていたら、、、。(-_-;)
でも、風流を好んだ伊達政宗様なら、きっとこう言うでしょう。
「心の目で見れば、城はあるではないか!」
残された遺構から城の素晴らしさを愛でる。
そういう奥ゆかしい仙台城の魅力を皆様にお伝えするのも、私たちガイドの役目でもあります。m(_ _)m
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。