杜の都 仙台の基盤を築いた英雄、伊達政宗はどこから来たの? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。m(_ _)m

 

今や東北の中枢都市として誰もが認める不動の4番、仙台市。気が付けば、人口は100万人を超え、2019年には市制施行130周年を迎え、平成元年には政令指定都市へ移行し、30周年を迎えた杜の都仙台。

 

もともとは中規模程度の街だったのを、伊達政宗が岩出山からこの地に居城を定めたのが慶長5年(1600年)。そこから、大都市としての一歩がスタートしました。(^o^)

 

もうね、仙台市民は青葉山(仙台城のあるところ)に足を向けて寝られないですね。

 

さて、この宮城の英雄にして仙台藩祖伊達政宗。今や、宮城、仙台を語るには欠かせない存在。そのネームバリューは牛タンやら笹かまと言ったソウルフードと肩を並べる代名詞でもある。

 

仙台・宮城の観光PRキャラクター「むずび丸」は伊達政宗の兜を被っているし、「ひとめぼれ」に続く代表的なブランド米は「だて正夢」だし、地元某TV局のニュース番組名は「てれまさむね」と来たもんだ。

みなさんの大好きな牛タン屋さんの名前にもこの「政宗」ブランドはけっこう使われていたりする。

 

じゃあ、伊達政宗はれっきとした地元宮城生まれの宮城育ちなのかと言えば、実はそうでは無い。

 

では、いったい 伊達政宗はどこから来たのでしょう?

 

時は永禄十年八月三日(1567年9月15日)。

 

父伊達輝宗と母義姫の嫡男として、出羽国(今の山形県置賜郡)の米沢城で産声を上げました。

そう、伊達政宗の出身地は出羽国、宮城県のお隣、山形県なのです。

 

群雄割拠の戦国時代、当時の武将の居城のあり方としては出来るだけ居城を動かしたくない武田信玄や上杉謙信のような①「地縛霊侍」と織田信長のように状況に応じて居城を移す②「ヤドカリ侍」の2パターンがありました。もちろん、臣従した主君の命令一つで片道切符の国替えを命じられる、③「リアル引っ越し侍」もいました。

 

戦略家でクリエイティブな発想をお持ちの我らが伊達政宗様は、②の「ヤドカリ侍」であったのですが、あの豊臣秀吉を永遠の上司(!?)と決めてからは、③の「リアル引っ越し侍」へとパターンチェンジ!

天下統一へと進みつつあったご時世では、生き残りを賭けた苦渋のキャラ変更だったのはご理解を頂きたい。m(_ _)m

 

米沢城をスタートとして、天正十七年(1589年)の摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)で蘆名氏を滅ぼすと、会津の黒川城(今の会津若松城)へと本拠地を移します。(ここまでは②の「ヤドカリ侍」ね)しかし、惣無事令違反を奥州仕置きで咎められて、会津を没収。わずか1年半ほどでまた米沢城に戻って来ます。(ここから③の「リアル引っ越し侍」がスタート)

 

「まあ、いっか。生まれ故郷で再起を図るかな」

 

そのぐらいに思っていた政宗様でしたが、天正十八年(1590年)に「葛西大崎一揆」が勃発!これを一旦は鎮圧して胸をなで下ろした政宗様の元に、裏で一揆軍と繋がっていた疑惑が持ち上がります。これが影響したのかどうかは定かではありませんが、当時の所領12郡余72万石のうち6郡(長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田)の44万石を没収され、代わりに葛西氏と大崎氏の旧領13郡30万石。政宗様は岩出山城(いわでやまじょう)へと入城します。天正十九年(1591年)のことでした。

 

そして、慶長五年(1600年)に縄張りを始め、慶長七年(1602年)には一応の完成をみた仙台城に岩出山から移ることとなるのです。

 

つまり、

米沢城→黒川城→米沢城→岩出山城→仙台城

という変遷を経て来たということになります。

 

山形生まれの山形育ちで領土を最大にしたところで、居城も移したんだけど、秀吉の命令でスタート地点に逆戻り、今度は国替えで岩出山に移って、自ら城と街を手掛けて仙台へ

 

どうです、ご理解を頂けましたでしょうか?

 

奥州の伊達家がスタートしたのは福島県伊達市。機会があったら福島・山形・仙台を巡ってみるのも

いいかもしれませんね。(^o^)

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。