どんな人にも
生まれ育った祖国があり
その国の母国語を身につけて
文化や習慣の中で
アイデンティティを確立します。 

生まれた国と育った国が違う
そんな環境で生きている人も
自分の中での祖国はあったりすると
よく耳にします。

日本で育った後、海外で生活し
その国の国籍を取り、外国語を
話し、その国の文化や習慣に
馴染んだとたとしても
日本人の心みたいなものは
魂に刻まれていたりする人が
いれば、全くの外国人となり
日本人であることに違和感を
抱く人もいます。

これと似たようなことが
現在の武道・格闘技の世界で
起きているのだと思っています。
昔のように、スタイルの違いで
明確に区別をすることが難しくなり
以前よりどの武道や格闘技が
強いのかという論争は影を潜めています。

かつては柔道と空手、ボクシングと
キックボクシング、武道と格闘技など
がそれぞれの威信をかけた他流試合が
行われていました。
ようはボクシングが投技はしないし
柔道がパンチやキックを出さない
といった感じです。

個人レベルから、団体レベルまでで
そういった争いが表に出ない所で
行われていて
その異種の闘いを一つの興業とする
流れが出てきました。
そのあたりから武道が格闘技の世界へ
足を踏み入れるようになったり
逆に格闘技が武道に近づいたりするよう
になったようですね。
異種格闘技戦と呼ばれた興業がそうです。

この異種格闘技戦が世界中で認知され
てくると、共通のルールでやろうと
いう流れは当然のようにやってきて
異種格闘技戦ではなく、総合格闘技と
いう、打撃技、投げ技組み技、関節技
絞め技を駆使して戦うルールでの
興業が盛んになりました。
ちなみに僕が16年御世話になった武道は
総合的な技が一つのものとして存在し
実戦が想定されていなければならない
という考えの合理的で実戦的な ものでした。
総合格闘技と言う言葉がまだ
無いような時代に生み出された
武道です。離れてしまいましたが
そんなバックボーンがあります。

話は総合格闘技にもどります。
アメリカで開催されたUFCという
総合格闘技の興業でグレーシー柔術の
存在が世界中の格闘家、武道家に
震撼を与えました。日本の武道が
ブラジルで独自の生き残りをして
グレーシー一族により
その強さを証明したからです。

それまでは空手が強い、柔道が強い、
キックボクシングが強いと内輪で
わいわいやっていたのが
海外からの逆輸入の柔術が
黒船のように襲来してきたので
それどころではなくなってしまったのです。
日本の格闘家や武道家が次々と
グレーシー柔術のグレーシー一族に
総合格闘技ルールで敗れてしまい
桜庭選手がグレーシー一族に勝つまでは
もはや日本人は勝てないのではないかと
嘆く人もいました。
そして総合格闘技が世界中で認知
されるようになり今ではMMAと
呼ばれ世界規模に広がりをみせて
います。

このMMAというルールのスタイルが
メジャーになったために
空手、柔道、キックボクシング、柔術
ボクシング、ムエタイ、テコンドー、
レスリング、拳法などなど
空手でも、フルコンタクトや寸止めと
あらゆる武道・格闘技をバックボーンに
持つ選手達が一つのルールの中で
それまで培ってきたものをうまく
溶け込ませ結果を出し始めました。

総合格闘技という興業は
総合格闘技という新たな格闘技を
生み出したわけです。
そのおかげもあってか
どの武道・格闘技が強いのかではなく
個人の強さに焦点が移っていったの
ではないかと思っています。

ここで先に書いた祖国、文化、習慣と
繋げていきたいのですが
生まれ育った国でその国の言葉を
話し、その国の文化や習慣の中で生きる
ように、自分が選んた一つの武道や格闘技
の道を邁進する人

生まれた国と育った国が違う人のように
ある武道や格闘技を学び、身につけた
ものを活かし、心の支えにし
違う武道や格闘技を追求する人

バックボーンにとらわれず
今現在取り組んでいる
武道や格闘技を楽しむ人

そんな人達が入り乱れているのが
現在の武道・格闘技の状況なの
かもしれません。

古い価値観は無くなりつつありますが
実戦的なものからスポーツ的なものに
なってしまう危険性も含んでいるので
武道と呼ばれるものは
実戦はルールが無いという本質からは
決して目を逸らさぬよう注意は必要
なのでしょうけれどね。


僕個人としては武道・格闘技というより
それをしているその人自身を知りたい
と思うようになりました。

まるで自分の母国語を話すように
相手の言語を話すように
共通の言語で会話をするように
自分が学んだものを
身につけたものを活かせるのかを
知りたいとも思います。

今年でやっと30年やらせて
もらっていますが、知れば知るほど
分からないことが増えていきます。
面白いですね。