つづき



古猫🐈の話をまるで夢のような気持ちで剣術家は聞いていましたが、古猫🐈に挨拶をして次のように聞きました。

『私は長い間剣術の修行をしてきましたが、いまだにその道を極めていません。今晩、いろいろな持論を聞いていて、我が道の核心をつかみました。できればさらにその奥義をお示しくださるようお願いします。』


古猫は次のように言いました。

🐈
『いや、私はケモノです。ネズミは私の食物です。どうして私が人間のことを知っていましょう。けれど、密かに聞いたことがあります。
剣術というものは、もっぱら他人に勝つことのために努力するものでなく、大変な事が起きた場合に、生きるにしろ死ぬにしろ、それに明らかな形で対応するための術です。武士たる者は、常にこの心を養い、そのための術を習得しなければ存在する価値がありません。それゆえ生死というものの真理を徹底的に理解し、その心がかたより曲がることなく、疑い惑うことなく、才覚に溺れたり作戦ばかりに頭を使うこともなく、常に心の中は穏やかなまま何のこだわりもなく、深く静かな状態を保っているならば、目の前に起きるあらゆることに対応でるでありましょう。その心にたとえ僅かでもこだわりがある場合は形にあらわれ、形がある場合は自分と敵がいて争いが起きるわけです。このようなことでは心も体も自由自在には動けるわけもなく、自分からピンチにおちいって冷静ではいられなくなります。そのようなことで、どうして勝負にのぞめましょうか。かりに勝ったにしても、わけもわからず、それは剣術とはいえないのではないでしょうか。
また、何もこだわらない=空白 ではなく
もともと心には形が無いのです。ですから何かを蓄えるものでもなく、わずかでも何かを蓄えたらなら気持ちがそちらに片寄ります。わずかでも気持ちか片寄れば、真っ直ぐに物事に対応することはできません。気持ちが大きく片寄れば向かった先は勢いあまって暴走し、気持ちが逆に弱くなれば何も成し遂げられません。どちらの場合もバランスが取れないわけです。
私が何のこだわりも持たないというのは、心には何も蓄えず、気持ちに片寄りはなく、自分と誰かを比べず、敵と自分という思いも要らず、何かが起きれば適切に行動し、それすら何もなかったかのように振る舞うことなのです。

易経に【何かを思うこともなく行うこともない。静かな状態で動かない。そうすると感得するところがあって遂に天下の事柄に通じる。】という基準かあります。

この教えを知って剣術を学ぶ者は道理に近いのです。』



続く





🐈