ずっと前から

区別が難しいと感じていたのが

『見守る』と『放置』の違い。


あと、

『見守る』と『見張る』の違い。


今回次男の修学旅行準備をするにあたって、

境界線を超えてしまうことが多々あり、

それを振り返ってみた時

なんとなーくそれらの違いが

わかったような

わからないような、、、(どっちやねん!!)


修学旅行の記事はコチラ↓『修学旅行』我が家の中3の次男一昨日から修学旅行にでかけている。小5の秋から不登校と再登校を繰り返している次男学校の宿泊行事に参加するのは何気に初めてだ。中2の3学期から…リンクameblo.jp


『見守る』っていうのは

ただ眺めること、、なのかな?


一方『放置』は目を背けること


例えば子どもに対してだけど、

『見守る』と『放置』は一見同じように見える。


でも、中身が全然ちがうんだよなぁ。


『放置』は目を背けてなるべく関わらないようにすること。

完全に背中を向けている。


『見守る』は視界の片隅で眺めるかんじ。

必要があれば手を貸すよ!っていうスタンスは崩さず、俯瞰して眺める。

凝視するわけではなく、ただ静かに眺める。

(凝視するのは子どもじゃなくて自分自身だ)


この『眺める』という行為に自分の妄想やら願望やらがくっついてしまうと『見張る』になるんじゃないだろうか。

自然と『凝視』になってしまうよね。


あー、そっかぁ

感情をくっつけずに事実だけをみるって

前からずっと言われてきたことだけど(←誰に??笑)

なぜそれが必要なのかいまいち分かってなかったわ。


感情をくっつけないっていうのも

なんかよくわからなくって。


だって、感情は勝手に湧いちゃうもんだし。


湧いてもいいんだな、きっと。

ただ、事実と感情の間に

ちゃんと「別のもの」っていう認識があれば。


感情は自分の問題で、

相手(子ども)とはなんの関係もないっていうことがわかっていれば。


なるほどー、ここに境界線をひくのかぁ。


私は今まで境界線って

空間に引くものだと思ってた。


相手と自分の間に。

物理的にね。


でも、ちょっと違ってた。


境界線は頭の中に引くのかもしれない。


目で実際に見たもの

耳で実際に聞いたもの

それらと、

それに伴って湧いてくる主観や感情の間に

これらは別物だよー、ごっちゃにしたらダメだよーって境界線を引く。


境界線を引いて

いつでも力を貸すよっていうスタンスは崩さず

ただ眺める


こうしたらいいのにとか

ああなったらいいのにとか

そういう願望、妄想、コントロールはくっつけないでただ眺める。


これが『見守る』ってことなのかもしれない。