ずっと前から
区別が難しいと感じていたのが
『見守る』と『放置』の違い。
あと、
『見守る』と『見張る』の違い。
今回次男の修学旅行準備をするにあたって、
境界線を超えてしまうことが多々あり、
それを振り返ってみた時
なんとなーくそれらの違いが
わかったような
わからないような、、、(どっちやねん!!)
修学旅行の記事はコチラ↓
『見守る』っていうのは
ただ眺めること、、なのかな?
一方『放置』は目を背けること
例えば子どもに対してだけど、
『見守る』と『放置』は一見同じように見える。
でも、中身が全然ちがうんだよなぁ。
『放置』は目を背けてなるべく関わらないようにすること。
完全に背中を向けている。
『見守る』は視界の片隅で眺めるかんじ。
必要があれば手を貸すよ!っていうスタンスは崩さず、俯瞰して眺める。
凝視するわけではなく、ただ静かに眺める。
(凝視するのは子どもじゃなくて自分自身だ)
この『眺める』という行為に自分の妄想やら願望やらがくっついてしまうと『見張る』になるんじゃないだろうか。
自然と『凝視』になってしまうよね。
あー、そっかぁ
感情をくっつけずに事実だけをみるって
前からずっと言われてきたことだけど(←誰に??笑)
なぜそれが必要なのかいまいち分かってなかったわ。
感情をくっつけないっていうのも
なんかよくわからなくって。
だって、感情は勝手に湧いちゃうもんだし。
湧いてもいいんだな、きっと。
ただ、事実と感情の間に
ちゃんと「別のもの」っていう認識があれば。
感情は自分の問題で、
相手(子ども)とはなんの関係もないっていうことがわかっていれば。
なるほどー、ここに境界線をひくのかぁ。
私は今まで境界線って
空間に引くものだと思ってた。
相手と自分の間に。
物理的にね。
でも、ちょっと違ってた。
境界線は頭の中に引くのかもしれない。
目で実際に見たもの
耳で実際に聞いたもの
それらと、
それに伴って湧いてくる主観や感情の間に
これらは別物だよー、ごっちゃにしたらダメだよーって境界線を引く。
境界線を引いて
いつでも力を貸すよっていうスタンスは崩さず
ただ眺める
こうしたらいいのにとか
ああなったらいいのにとか
そういう願望、妄想、コントロールはくっつけないでただ眺める。
これが『見守る』ってことなのかもしれない。
