原ノ町駅でバスを降り、いとこの運転する車で伯母の家に向かいました。
今年92歳になる伯母は、海岸線から2キロほどのところに住んでいます。
震災までは、娘、孫夫婦、ひ孫の4代の世帯でした。
日中、ひ孫(当時2歳)の子守はひいおばあちゃんの仕事。
昼間は走り回る2歳児を小脇に抱えて、夜はお風呂にも入れる奮闘ぶりでした。若いころから自営業で鍛えた足腰、2歳児の一人くらいどうということはありません。
そして、3月11日。
いやあ、たまげたたまげた。ひ孫さ覆いかぶさったー。
家は壊れねえし、電気もガスもついたんだ。水も出たし。なんともねぇ。
ちゃわんやらなんやらめちゃくちゃになって、片づけてたら
「家 流さっちゃー(家が流された)」
って逃げてきた人いたんだ。そんで、なにーっ津波?! ってことになったんだ。
ここさは来ねがった。(津波は)500メートルくらい手前でとまったんだな。
おらい(私の家)はなんともねから、ここさ寝たんだ。
ところが、原発が爆発したら、逃げねっきゃなんねぇってことになって、山の方さ非難したんだっけ。んでも寒いし、布団は固いし、いやーあんなとこさいらんね。
そんで、孫のとこ(関東)さ行ぐべってことになったんだ。
避難民ってことで、高速も通してくれたし、ガソリンも入れられた。
・・・伯母たちは、その後2週間ほど関東の孫の家で過ごし、南相馬に戻りました。
徐々に元の生活に戻り始めたかのように思われました。でも、一緒に住んでいたひ孫は放射能を恐れて引越してしまい、ひいおばあちゃんの仕事はなくなったのです。
先週、しばらくぶりに会った伯母は、
腰から上は元気(よくしゃべる)、頭もしっかりしています。新聞も読んでいるし、芸能情報にも詳しい。私の名刺を渡すと、きちんと日付を書いてからしまっていました。
しかし、子守をしなくなってから、足腰は嘘のように弱くなり、外を歩くのもおっくうだとのこと。
それでも帰り際、一生懸命立ち上がって、窓にもたれるようにして手を振り見送ってくれました。
その姿は嬉しくもありましたが、
数年前なら、外に出てきて、そして車道にまで出て、車が見えなくなるまで手を振って見送ってくれたのに・・・と思うと、震災が、原発が、恨めしくてなりませんでした。
つづく