休団にあたり、団の歴史(変遷)を記述し、遺しておきたいと思います。
【ボーイスカウト清水町第1団の変遷】
ボーイスカウト静岡県連盟 沼駿地区
清水町第1団
団委員長 平出 雅一
昭和39年(1964年)3月、当時、三島第9団でボーイスカウト運動を行っていた清水町新宿区在住の「木畠邦彦(きはたくにひこ)」氏(故人)が、「清水町にもボーイスカウトの団が必要だ!」と一念発起し、清水町新宿区・同伏見区東部・同玉川区北部(※以降、町名は省略)の少年達を集め、少年隊(現:ボーイ隊)と年少隊(現:カブ隊)を組織し、清水町第1団を発団した。
その翌年の、昭和40年(1965年)3月には、長沢区在住の「吉田武(よしだたけし)」氏(故人)が、長沢区・八幡区・伏見区中西部の少年達を募り、少年隊(現:ボーイ隊)を組織し清水町第2団を発団した。
ちなみに、当時は、2個団とも、三島地区に所属していた。
翌年の第4回日本ジャンボリー(1966年:昭和41年:岡山県日本原)には、2個団からは、少年2級(現:ボーイ隊2級スカウト)進級までの時間的余裕が無く、若干名しか派遣することができなかった。
その悔しさもあり、朝霧高原で行われた第5回日本ジャンボリー(1970年:昭和45年:静岡県朝霧高原)には、清水町からは2個班程度のスカウトを派遣することができたと聞いている。
また、その翌年に同会場で行われた第13回世界ジャンボリー(1971年:昭和46年:静岡県朝霧高原)には、若干名のスカウトが派遣されたと聞いているが、当時は、推薦・面接・審査等の基準が厳しく、指導者達がとても苦労したと聞いている。
清水町内では、第5回日本ジャンボリーと第13回世界ジャンボリーが、静岡県内開催と言うこともあって、多大なる影響を受け、ボーイスカウト熱が一挙に高まり、その頃、清水町第2団では、新たに、柿田区・湯川区・上徳倉区・中徳倉区・下徳倉区・外原区の少年達を受け入れざるを得なかった。
そのため、スカウトの人数は膨大な数に膨れ上がり、清水町第2団では、少年隊(現:ボーイ隊)・年少隊(現:カブ隊)共に、2個隊を有する巨大団になっていた。
その頃、清水町・長泉町の各団が、三島地区から分かれ、長泉第1団・同第2団・清水町第1団・同第2団の4個団で、新たに駿東地区が組織された。
そして、第6回日本ジャンボリー(1974年:昭和49年:北海道千歳原)の情報がもたらされると、清水町内では、玉川区中南部・堂庭区・久米田区・戸田区・畑中区・的場区を中心に、清水町第3団が組織された。
また、清水町第2団では、当時の長泉第2団所属の地区コミッショナーの助言・協力を得て、清水町第2団から、柿田区・湯川区・上徳倉区・中徳倉区・下徳倉区・外原区のスカウト達が分かれ、清水町第4団が分封団として誕生した。
しかしながら、清水町第4団でもスカウトの数が膨れ上がり、手に負えなくなり、上徳倉区・中徳倉区・下徳倉区・外原区のスカウト達を分封して、清水町第5団の発団に至った。
その後、第7回日本ジャンボリー(1978年:昭和53年:静岡県御殿場市滝ケ原)への参加のために、スカウト達の進級にも拍車が掛かり、スカウト活動は活発化し続けたのであるが、この頃から、指導者訓練に参加しない指導者が増え続け、スカウト活動は、「人格」・「健康」・「技能(知識)」・「奉仕」の教育の4本の柱から、とんでもなく掛け離れレジャー化し、スカウト達の進級・進歩は停滞してしまった様である。
そのため、清水町第3団は、いつの間にか指導者達の姿が消え、空中分解状態となり自然消滅してしまった。
その後も、各団のスカウト募集状況は振るわず、ビーバー隊を新設するもスカウトの人数が上昇傾向に移ることはなかった。
その様な状況下の中でも、伏見区西北部(通称:伏見新田)を中心として清水町第6団が組織され発団した。
清水町第6団は、自然消滅してしまった清水町第3団の地域をカバーする役目も担った様である。
時は流れて、ミレニアムの2000年(平成12年)、実際には、その前年からの話であるが、静岡県連盟が地区の再編に踏み切った。
駿東地区は、沼津地区と裾野地区と合併し沼駿地区となることが、静岡県連盟理事会で決定された。
その際に、「清水町内に5個団もあるのは、人口3万人に対して、団の数が多過ぎ!」と指摘を受けた。
そこで、町内5個団の団委員長が集まり、話し合いが続けられた結果、清水町第1団に全団を集約すると決められた。
その際、清水町第2団の一部の方々が、地域の状況や事情で分かれ、清水町第7団が発団された。
結局のところ、今現在の清水町第1団は、2000年に新たに生まれ変わった団であり、改編されてやっと二十歳を過ぎたばかりの団である。
しかしながら、2018年(平成30年)11月26日(月)、「仏滅」の日。
当時の団委員長以下、団委員全員と、ローバー隊を除く各隊指導者全員が、突如、退団を申し出て来たのであった。
理由は、
・「スカウトが集まらない。」
・「スカウトを募集する体力・気力がない。」
・「団委員の高齢化と健康状況が思わしくない。」
・「平成が終わって新しい年号になるので辞めるのに丁度良いタイミング。(この時は、新年号は未だ分からず)」
・「登録料が引き上げられ負担が大きい。」
・「新制服を買う気にならない。」
などであった。
今現在、当団には、ローバー隊しか残っていない。
また、当団からは、7名の富士スカウトを輩出しているが、その内の3名がローバー隊に残ってくれている。
ローバー達が卒業するまで、残された時間は本当にあと僅か。
新たにスカウトを募集し、新たに隊を組織できなければ、清水町第1団は消滅の運命を辿ることになる。
(※:本文はここまで)
(備考)
※:令和4年12月 4日(日)記述
※:沼駿地区20周年記念誌の原稿
※:記念誌には紙面の都合上掲載されず
結局のところ、今現在の状況、
・スカウト達の卒業
・私の身体の不調
・私の税金対策(固定資産税)
(※:スカウトハウスとその土地は私名義)
・私の母親の死去により時間的余裕がなくなった
・同上の相続と相続税
など、追い詰められてしまいました。
他の団委員は、
「平出さんの代わりは、誰にもできない!」
と言うことで、休団に至りました。
ガッカリする話で、誠に申し訳ございませんが、
皆様、今日も好い一日をお過ごしくださいませ!(^-^)/