今週の占星術の内容を受けて、いよいよ始めるこのシリーズ。
2022年の8月には読了していたにも関わらず、記事にするのは今になりました(汗)
この頃のTOLANDは面白かったよなぁ。。。
各チャプターごとにまとめてゆきますので、とても長いシリーズになります。
人々がどのように意識を獲得し、神々の声が聞こえなくなっていったを書いたこちらの書。
よろしくお願いいたしますm(__)m
では早速本題に。
第1章:意識についての意識
まずは話は網膜像についてから始まります。
私たちの視覚は、実はパラパラ漫画のように世界を捉えて認識しています。
毎秒二十回切り替わりながら世界を視覚で認識しています。
しかし、私たちの意識はそれを途切れ途切れではなく、連続した風景として認識していますよね。
ジェインズの本には毎秒二十回とありますが、こちらは毎秒三回眼振して、世界を認識していると出ています。
私たちが認識している世界は、空白の時間が存在しているのですが、空白と感じないのは、
外側頭頂間野のニューロンは,サッケードの直前からサッケードのあとの活動の状態を予測していることになる.サッケード中の情報の欠損は予測的に補填されているらしい.
「予測して勝手につなげている」ということでしょう。
私は居合の稽古をしているのですが、技の間は意識が通っているのはごくわずかな瞬間で、途切れている隙間な時間の方が圧倒的に多いのですね。
もっと瞬間瞬間どの筋肉にどれくらい力がかかって、どれくらい動いたのかをかっちり把握したくて、稽古を続けています。
意識の隙間のほうが、実は意識の本体なのですが、それはまた別の機会に。
ジェインズは、むしろ一つ一つ意識して行動しようとすると、それができなくなると述べています。
例えば、話すときに日本語ならば一音一音意識して話したら、確かに話しづらい。
この場合、私が居合でやりたい意識の通し方は、身体の状態をミリ秒単位で感じたい、ということです。
喋ったり、書いたりする日常の慣れた動作に関しては、一つ一つの動作を意識するよりも、意識しないで任せたほうが上手く行く。
話を意識の空白に戻します。
自分の意識が、見たいものだけを外の世界から拾ってくる、認知的盲点について。
私たちの意識は、「重要でない」と判断したら、その情報は拾わない。
逆に言うと「重要である」と意識しないと、その情報が拾えない。
既に知っている物に関しては、人間はしっかり細部を見ることはしない。
私たちは常に外部情報を削り落として認識し、生活しています。
人間の脳が全ての情報を拾ってしまったら、とてつもない量のカロリーを消費してしまい、私たちの身体はそれだけのカロリーを脳に提供することはできない。
苫米地博士のチャンネルから。
意識の細かい定義について。
1. 意識は経験から得た心象の蓄積ではない
記憶は上で述べたスコトーマの原理が働いていて、複雑な物事の詳細を100%記憶しているわけではない。
記憶を再生する場合、自分を他人の目で眺める客観的再創造が働く。
2. 意識が概念を形成するわけではない
概念は言語によって規定されるので、概念の形成は意識の仕事の結果ではないということです。
3. 意識は学習に必要ではない
運動や脊髄反射的行動の習得に、意識は必要ないことを連想していただければと。
意識が学習に必要な時もあるでしょうが、必須要素ではない。
4. 意識は思考に必要ではない
私たちは話すときに、単語を探し文を作るということを、意識して行なっているわけではなく、自動的に言葉が口から出てくるが、意識が知覚しているのは、思考の準備と材料と最終結果だけである。
(思考に必要なのは言語ですね。)
5. 意識は理性に必要ではない(「理性」は実に西洋的概念ですね。)
この場合の理性とは、推理や知的思考のようです。
正直この項が言いたいことが、よくわかりませんでした。
難解な数学的証明が、インスピレーション・閃きで解けたとき、思考が必要ないことを例に挙げています。
6. 意識は空間的な性質を持ち、意識は頭の中にあると考える人が多いが、実際に脳みその中に物理的空間があるわけではない
もちろん心臓・ハートにそのような物理空間があるわけではない。
意識に在りかがあるわけではなく、我々が勝手にあると想像しているだけである。
第1章は以上です。
ジェインズが言っている意識とは、自我意識・左脳言語意識のことだと思うのですが、ちょっと微妙ですね。
翻訳本なので、日本語がダイレクトな感じではないので、非常に意味を汲み取りづらいです。
先が思いやられるなぁと思いながらも、いつになるかは分からない次回に続く(笑)。