昨年の奥多摩の御岳神社のリトリート、そして今年の湯殿山開山式でご一緒させていただいた、出羽三山の山伏、星野先達。

 

 

 

先日紹介したこちらの本にも星野先達が載ってました。

 

 

 

先達と一緒に山を歩いたりするのですが、滝や磐座があると自然崇拝する儀式が行われる。

法螺貝を吹いて、儀式が始まり、祝詞をあげてゆく。

 

その祝詞の中でも一番印象的なのがこちら。

出羽三山祝詞の「あやにあやに」。

原日本人の魂を感じる歌です。

男性バージョンもいいのですが、

 

 

女性バージョンがより神聖に響く。

 

 

懐かしい感じがしませんか?
このメロディの雰囲気が、私たちのDNAに刻まれているからだと思います。
 

儀式後の滝。

滝が私たちの祈りに応えたかのように、更に美しく輝く。

 

 

画質を下げないと、アメブロにアップロードできなのが本当に残念。

 

 

儀式の最後は、災害で亡くなった方への鎮魂の祝詞。

先達は東北出身なので、当然東日本大震災もいまだに鎮魂の対象であります。

 

先達とご一緒して、滝で自然をおろがむ儀式をしている時に、ふとメキシコで出会ったのUFOコンタクティを思い出しました。

彼もUFOコンタクティという変わったことをしている人なのですが、ベースはネイティブのメキシコ人なので、シャーマニズム的というか、基本は祈りと鎮魂なのです。

 

今年の春分の日に連れて行ってもらったメキシコの祈りの場。

 

 

 

私自身、ここ数年スピリチャルを再勉強していたのですが、途中からスピリチャルが何を表しているのか、分からなくなっていました。

私が関わっていたスピリチャルは、祈りや鎮魂といった霊性に関わるものではなく、今思えば、霊的な存在の話に自己の願望実現を組み込んだ、「霊性」とはかけ離れた別物でした。

しかしメキシコでの祈り、そして星野先達に再会して、その祈りと鎮魂を間近で見て、真のスピリチャルが何であるか、やっと分かったのです。

 

真のスピリチャリティとは、祈りであり鎮魂である、と。

そこに自己実現や願望実現の影は、微塵もありませんでした。

 

羽黒山や湯殿山等々、山形の自然、そして祈りの場に行って、一つ気づいたことがあります。

出羽三山の神域・霊場は、丁寧にそして大切に祈られてきました。

長年丁寧に祈られてきた場所は、本当に静謐で清浄で清らかです。

上の滝の写真を見ていただければ、感じられることと思います。

人間の願望実現やご利益祈願の穢れが、感じられない場所だったのです。

丁寧に人々が自然に感謝して祈りを捧げると、こうも場の雰囲気が違うものなのかと。

 

2年前に山形を訪れた時の記事です。

出羽三山の廃仏毀釈や、山菜について。

 

 

 

スピリチャルを日本語に訳すと、

精神的な、宗教的な、崇高な、心霊現象の、といった訳になります。

現在の日本のスピリチャルは、宇宙人や、願望実現や、宗教的選民思想、間違った宇宙物理学の解釈、等々、なんでもあり。

日本のスピリチャルは、霊性というよりは、完全にニューエイジ&ニューソート思想です。

そこに願望実現系、自己啓発系の要素も加わって、もはや「スピリチャル=霊性」であるという原型をとどめていない状態。

挙句、コンスピリチャリティなどという分野まで登場してしまう始末。

 

 

ニューエイジ思想は、世界的に学生運動や反戦が広まって、体制側が体制転覆を恐れて、若者を骨抜きにするために生み出したものだったということは、以前どこかで書きました。

更にニューソート系は、ベースは西洋のオカルト神秘主義呪術。

加えて、スピリチャルで言われている次元論と超弦理論の次元論は、似て非なるものです。

これらを知って、日本のスピリチャルに対して、醒めてしまいました。

日本は絶対的な宗教的概念が薄いから、何でもありな状態になってしまっていて、日本のスピリチャル業界が世界で一番混沌としている。

勝手に付け足したり、好き勝手に解釈しすぎな業界なのです。

一度スピリチャル業界というジャンルを解体・分解して、それぞれに分けた方がいいのではとすら思います。

それは、スピリチャル業界に関わる方に任せますが。

 

 

話は戻って、祈りを捧げた別の滝の写真をば。

 

 

この時、初めて滝の流れる水に龍神を見出しました。

私は、見えないものが見えるというに人は、「まずは病院に行ったほうがいいよ」と言いたい人間です(笑)。

現実的に妄想的に、滝の流れに龍神を見たわけではありません。

正確には「龍のように見えなくもないね」という、日本人独特の「見立て」です。

 

舞台装置が簡略化された狂言の世界に顕著な「見立て」。

 

 

背景や装置がない舞台で演じる狂言では、扇や葛桶など、身近な物を使って何か別のものを表す、「見立て(みたて)」という手法が用いられます。

 

昔の人も実際に龍が見えていた訳ではなく、この見立てを使って遊んで、生活を豊かに楽しんでいたのだと思います。

 

しかしこれも、各個人の主観のなかで起きている出来事です。

殊更に龍神が見えたことを強調・特別視して、それをSNSで語り始めてしまったりすと、別の方向に行ってしまう。

なぜなら、主観でしかなく、客観視することが難しいから。

「私には神が見える!」と勘違いすると、簡単に道を踏み外します。

 

その人の主観は、あくまでもその人のものでしかない。

他人に無理やり共有させるものではない。

「そう見えた」のは、自分の中で留めておくのが美しい作法かと思います。

見えたものを芸術として残すのは、問題ないと思います。

「私、神様が見えるようになったの!」とか、他人に語り始めてしまうと、それは違いますよということです。

 

旅の帰りは新潟から。

新潟限定ビール。

iPad からアップしたら、何故か横に。。。

細かいことは気にしないO型なので、そのまま放置します。。。

 

 

 

スピリチャル界は、外国の情報をベースにしている場合が多いので、必然的に横文字が多いのですが、英語も使いこなせないのに横文字に走ると、本質を見失ってろくな結果にならないですねw

 

本日の結論。

言葉は正しく定義・理解して使いましょう。