京都の太秦にある大酒神社をご存知でしょうか?
太秦といえば広隆寺が有名ですが、その隣にひっそりと佇んでいて参拝客もいないのが大酒神社です。
広隆寺には素敵な仏像がたくさんあり、聖徳太子が秦河勝に贈ったと言われている弥勒半跏思惟像が有名ですよね。
当時は全身金箔で覆われていたようです。
こちらが広隆寺隣の大酒神社。ひっそり。
神社由来。
大酒神社は大辟神社が元名とあります。
大辟神社で調べたら兵庫県赤穂市にありました。
秦河勝は最後は赤穂の地で亡くなっているので、それで河勝を祀ったのがこの神社の基礎となってます。
雅楽の面の原型のようなものがこの神社にあるのですね。
話を京都の大酒神社に戻します。
ご祭神は、なんと秦の始皇帝、そして秦氏が古代日本に移民してくる前にいた弓月国の王、そして秦河勝の曾祖父の秦酒公。
秦酒公は雄略天皇(考古学的に実在がほぼ確定している最初の天皇)の時代の人です。
秦氏は天皇に酒を醸造して献上していたので、酒を作る人を秦酒公と呼んだのが酒公の名前の由来です。
「秦氏本系帳」「新撰姓氏録」によれば、秦氏の家系は、
「秦の始皇帝 ー 途中略 ー 功満王 ー 途中略 ー 普洞王 ー 秦酒公 ー 河秦公 ー 国勝秦公 ー 河勝泰造(秦河勝)」となっています。
この神社の説明によると、仲哀天皇のときに功満王が漢の動乱を避けて始皇帝の神霊をここに勧請した、とあります。
応神天皇のときに、功満王の子の弓月王が1万人強の民衆を引き連れて、中継地である百済から応神天皇の助けを借りて日本にやってきます。
(弓月国は現在の新彊ウイグル自治区にありました。)
少し先の時代になってしまいますが、平城京の推定人口が20万人。
飛鳥以前ですから近畿地方はもっと少なかったでしょう(10万人くらいか??)
そこに1万人強の移民が一気に押し寄せたわけです。
蚕を飼い、沢山の絹織物を天皇に献上したので、絹織物がうずたかく積まれたことから「禹豆麻佐(うずまさ)」の姓を賜った。
漢字は違いますが、今の太秦として地名として残ってます。
天皇から太秦の地を与えられてます。
雄略天皇の時代には全国に秦氏が拡大していたようで、秦酒公が全国の秦氏を集めて「秦氏会議」を開いています。
そして秦酒公を秦氏の族長と定めました。
この辺の情報は以前ブログに書いた以下の本から。
ウズマサにはヘブライ語で「ローマ」の意味があるそうです。
もともとローマ帝国にいた原始キリスト教徒であった彼らが「ローマ」の名を戴いた意味は大きいですね。
そこから流れ流れて日本にやっと辿り着いたわけです。
以下で現在のユダヤ人と古代ユダヤ人は別物なんじゃないのか、と書いてしまいましたが、ユダヤ教の一派が原始キリスト教なので同じですね。
勉強不足でした。
今のユダヤ人と、古代に日本に入植して混血したユダヤ人が攻撃性の面でどうしても元は同じと思えずですね。。。
以下のブログで指摘した、人種が違ったユダヤ教徒が生まれたときになにか別物になった気がするのです。
今はその別物の方が主流で本物な扱いになってしまてますものね。
最初に出てきた仲哀天皇ですが、現在ではその存在は否定されているのが主流のようです。
身長が3メートルとか。。。
父がヤマトタケルで母が神功皇后とか。。。
ちなみにこの方の葬儀で天津罪、国津罪を表す物を集めて葬儀が行われたようです。。。
興味深い。
以上です。読んでくださりありがとうございました。
長髄彦、饒速日、磐余彦の三角関係はもう少し時間がかかりそうです(^^;