私の弾く『雨だれの前奏曲

(フレデリック・ショパン作曲)』を

「忍び寄る災厄の恐怖が

よく表現されている」

「ダム決壊の悲劇の

臨場感が素晴らしい」

「ヒッチコック映画の

テーマ曲にしたいくらい」と

賞賛してくれるわが夫(英国人)。

 

 

何が腹立たしいって

夫は本気でこれらを

誉め言葉にしている点ですよ・・・!

 

 

「違う。『雨だれ』は

そういう曲じゃない。

マヨルカ島の雨は

そこまで暴力的じゃない」

 

 

 

 

「そういう気の緩みが

油断に繋がっていざという時に

被害を拡大するんですね」

 

そういう話でもないわ!

だいたい何だ、ダムなんてものは

落雷くらいじゃ壊れないように

がっちり設計されているんだよ!

多少連続して雷が落ちたくらいで

壁が崩れ落ちてたまるもんか!」

 

 

 

 

「・・・確かにそれはそうですね」

 

「わかってくれたか」

 

 

「じゃああれ、あの

ドーン!という音、

あれは雷じゃないんですよ」

 

「・・・じゃあ何だよ」

 

「ゆっくりと近づいてきて

ダムを破壊する・・・

・・・ゴジラですかね?」

 

 

 

 

「フレデリック・ショパン作曲

『24の前奏曲

作品15番【ゴジラ】』。

お前絶対どっかで怒られるぞ」

 

 

そして何が困るって以来

私はこの曲を弾くと

脳内の情景に・・・

 

 

ゴジラが・・・

 

混ざり込むようになって・・・

 

 

 

 

冒頭部分こそ以前と同じく

長椅子に横たわる

ジョルジュと仔犬、

その横にある窓から

聞こえる雨だれの音、

なんですけど、転調して

空が暗くなると同時に・・・

 

窓の遠くに

ゴジラが見えるんですよね・・・

 

つまり遠景としてのゴジラ

 

で、閃くのが雷ではなく

ゴジラがあの熱線をこう・・・

 

それで旋律が

悲劇的になる部分は

家庭内における諍いと

世界における自然災害の

悲劇の対比、みたいなことになり、

夫よ、頼む、私のこの間までの

『雨だれの情景』を返してくれ。

 

 

このゴジラが見えるのは

私と夫だけなのか、

それとも他の方にも

幻視可能なのか、

そこが気になるところです。

 

 

ゴジラ新作は

『ゴジラvsコング』だそうで

 

 

噂によりますと現在

ネット界の一部では

ゴジラ派とキングコング派の

『勝つのはこっちだ』論争が

熱いそうでございます

 

「世界はまだまだ平和だな」

 

「それはやはり日本はゴジラ派、

米国はコング派なんですか」

 

「・・・夫よ、いいか、これは

国籍は関係ない、物の道理の

わかった知性ある人間なら

勝つのはゴジラ一択だ、

あ、何だその乾いた眼差しは」

 

「いえ・・・そうですか、

ゴジラが勝ちますか」

 

「当たり前だろ!コングとか

大きいだけの猿じゃないか!

奴が必死に登るビルを

ゴジラは一撃で倒せるんだぞ!

人間の娘に恋をしちゃったり

所詮は類人猿、哺乳類だ!

そこにいくとゴジラは

ゴジラのためだけに新たな

生物群の定義が必要な・・・

あれ、もしかして私、ゴジラに

肩入れし過ぎちゃっている?」

 

「ノーコメントです」

 

ゴジラ派の貴方も

コング派のアナタも・・・いや、

コング派の存在を仮定することは

このブログを読んでくださる

皆様の知性を否定すること!

 

キングコングは映画としては

名作であったかもしれんが

ゴジラ対コングならゴジラが勝者だ!

 

・・・Norizoさん、大丈夫?

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