宮城県塩竈の歴史を紐解くと、意外な発見がありました | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

どうも、すこっちです。(^o^)

 

みなさんは自分の住んでいる街の歴史などを深く掘り下げてみたことってありますか?

 

ともすると、日々の生活に流されてしまって、案外スルーしてしまいがち。

 

でも、些細なきっかけから歴史を紐解いてみたら、意外な発見があったりするものです。

 

今日はそんな発見がありました。\(^o^)/

 

カミさんが隣町の塩竈にあるカフェが6周年を迎えるとかで、一緒に行こうと言われて開店の30分前には到着したのですが、すでにかなりの行列が、、、。うちらより前に並んでいた方々が先に店内に通されて、席が空き次第携帯電話に連絡をいれるということで、しばらく待つことになった。

 

仕方がないので、周辺の本町エリアをブラブラしようということになり、散歩がてら歩いていたところ、塩竈の老舗酒蔵である「浦霞」の醸造元で有名な佐浦酒造店さんがありまして、

 

その佐浦酒造さんの生い立ちについて、こんな看板がありました↓

そしたらね、思わぬ発見がありました。

 

詳しいことは、この看板を拡大して見ていただくとしてですね、実は「佐浦酒造」の「佐浦」って、そもそも江戸時代の初めに京都に住んでいた佐藤七左衛門さんが仙台藩の塩竈の地に移り住み、彼の次男が三浦屋さんとこの婿養子になって、その後「佐藤」の「佐」と「三浦」の「浦」を一文字ずつ取って、「佐浦」という姓としたのが、「佐浦」の始まりなんだそうです。

 

し、知らなかった。ま、まさかそんな経緯があったとは。 地元に人たちは当たり前に「佐浦」、「佐浦酒造」って呼んでいたものが、実は「佐藤」と「三浦」の融合だったなんて、なんという新たな発見!たぶん、地元の人だって、こんなトリビア知らないんじゃないだろうか?

 

その後、兄の名義で酒造免許を得て酒造りをスタートし、現在に至るっていうストーリー。

 

ちなみに、看板商品の銘柄である「浦霞」は大正14年に源実朝の和歌「塩竈の松風むなり 八十島かけて 春やたつらむ」(意味 塩釜の浦の、松の木の間を暖かな風が吹き抜けていく。海に浮かぶ島々は春の霞につつまれて、今日の立春を迎えることでしょう。)の「浦」と「霞」のあわせ技で「浦霞」と命名された。

 

「佐」+「浦」で「佐浦」、「浦」+「霞」で「浦霞」。

 

これはたまたま偶然の一致か?それとも、合体技の遺伝子が継承されたのか?

 

そして、また別な説明書きの看板にたどり着く

こちら、老舗の甘味処として有名な「おさんこ茶屋」の歴史についてである。

 

なんでも、おさんこ茶屋を始めたのは鈴木喜惣右衛門さんという宮大工の棟梁で、なんと仙台藩から苗字帯刀(苗字を名乗り、刀を持つこと)を許されていたんだそうです。

 

かの有名な「寛文事件」(伊達騒動)でもって、仙台城下では遊郭や芸能興業が禁止され、その代わりに塩竈で公認したので、塩竈神社の参拝も兼ねて遊興に来る人で塩竈は大変賑わった。

 

鈴木さんの屋敷は広かったので芸能興業の会場として使われていて、芝居や寄席、浪曲や義太夫などが演じられていた。んでもって、二代目の鈴木喜惣右衛門さんの奥さんが本業の片手間に自宅の軒先で茶屋を始めたら、これが大ヒット!この茶屋を継いだ娘さんが「さん」という名前でたいそうべっぴんで、茶屋は一層繁盛したので、その名を取って「おさんこ茶屋」と呼ばれるようになったんだって。

 

これまた、新たな発見!そうなんだぁ、「おさん」の「茶屋」で「おさんこ茶屋」か、知らんかったわぁ。

ちなみに、こちらが今のおさんこ茶屋の店構え

こちらが自慢のお団子(左からみたらし、ごま、くるみ、あんこ、ずんだ)

 

そして、最後のふしぎ発見!がこちら↓

「おこしかけ石」の部分に注目!

 

四方跡公園(よもせきこうえん)には、鹽竈神社の左宮一禰宜であった阿部安太夫家が約千年もの間、存続した所と記されたとされている。

こちらが、それが記された石碑。よく見ると「一宮うんぬんかんぬん」と「延享」という年号が確認できる。「延享(えんきょう)」は、日本の江戸時代中期に存在した元号(年号)で、寛保(かんぽう)の後に始まり、寛延(かんえん)の前に終わり、具体的には、1744年(延享元年)から1748年(延享4年)までの期間を指す。この時期の天皇は桜町天皇と桃園天皇、江戸幕府の将軍は徳川吉宗、そして徳川家重なんだって。

 

凄くないですか?暴れん坊将軍の時代の石碑ですってよ、これって。

 

そして、こちらが↓



な、なんとこれが山幸彦(山で暮らす神)が兄の海幸彦から借りた釣り針をなくして困っていた時、海の神様であるワタツミの宮殿へ行く道を教え、神武天皇が東征する際、東に良い土地があることを伝えてその旅を導き、人々に塩作りを伝えたとされる塩土老翁神(しおつちおじのかみ)が座って休まれたとされる「おこしかけ石」なんだって。(古事記の世界の話だよ)

 

マジですか?それって、「この板はノアの方舟の切れっ端しなんですよ!」って言ってるのと一緒じゃないの?


いやもしそれが本当だとしたらよ、この石って紀元前660年以上前からずーっとここにあるってことになりますけど、、、。触ったらひょっとして、未知のパワーが宿るとか?ご利益あるのかしら?あー失敗した、触って、座っておくんだったぁ。(バチは当たらないよね)

 

とまあ、カフェの待ち時間の間に身近なところに、時空を超えた(!?)意外な新発見がありましたよーっていうお話でした。(^o^)