真実は人の数だけあるが、事実は一つしかない。 | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
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どうも、すこっちです。(^^)

 

「真実は人の数だけあるが、事実は一つしかない」

 

アタシの心の中に刻まれた、この言葉。

 

このブログでも何度か使わせてもらっているこのフレーズの出どころはというと、ご存じの方もいるかも知れませんが、TVドラマ「ミステリというなかれ」の1シーンで菅田将暉演じる久能整が犯人を追い詰める推理の中で発した言葉である。

 

この言葉を聞いたときに、なるほどな~と思った。

 

この言葉と出会う前まで、アタシの中にストックされていた同じようなフレーズは、名探偵コナンのあのフレーズ。

 

「真実はいつも一つ」だった。

 

そう、真実は常に一つしかないのだ、いくら言い訳や御託を並べたところで、真実は一つなのだから言い逃れは出来ない。悪いことをしたヤツは一刀両断に裁かれるのが正道なのだと。

 

しかし、このドラマ内での整クンのセリフを聞いて、よくよく自分の中で反芻してみると、確かに真実は人の数だけあるけど、本当にあるのは事実なんだろうなと。

 

例えば職場でパワハラ行為が発覚したとする。

 

パワハラを受けた部下Aは明らかに上司の行為が行き過ぎていたと主張する、部下側の真実がある。その一方でパワハラと指摘された上司Bの側には業務命令の範囲、部下の指導の一環という真実を主張する。

 

周りのヒアリングなどを通して、その事実は判定されることになるわけですが、これも職場の環境によるところが大きいのでこれまた厄介だったりする。

 

例えば、職場が上司B側を肯定する職場だったとすると、

 

①部下Aは何度仕事を教えても仕事が出来ない

②他の部下はAの穴埋めで仕事が増えていた

 

ということだと、上司B側の主張が認められる可能性が高くなるんだろうし、

 

これが、職場が部下A側を肯定する職場だったとすると、

 

①上司Bは日頃から部下Aへの態度がきつかった

②そのことで部下Aは悩んでいた

 

ということで、部下A側の主張が認められる可能性が高くなる。

 

こうなると、事実判定は難しいよね。どちら側の真実に寄せていくのかによって、事実は変わる。セクハラやモラハラも同じような要素をはらんでいる。

 

これが例えば、こんなケースだったりすると分かりやすいかも。

 

みなし子のA少年が無一文だったとして、飢えをしのぐために、お店の食べ物を盗んだとする。店主は当然それを見つけて警察に突き出す。

 

みなし子のA少年からしてみれば、悪いことだとは分かっていても、生きていくためには他に手段がなかったので、やむを得ない判断だったという真実。(もちろん、行政に駆け込むなりすれば、手立てはあるんでしょうけど)

 

だが、店主の側からしてみれば、万引き・窃盗=犯罪であり、許されることではないし、仮に義理人情で特定の人物に便宜を図ってしまったのでは、示しがつかない。ここには店主なりの真実が存在する。

 

ここには、「少年が万引き・窃盗をした」という事実のみが存在する。

 

あとのお裁きは司法に委ねるしかない。

 

大事なことは物事には常に2面性があるということ。

 

さてさて、昨今のコロナウィルスワクチンについても同様のことが言える。

 

政府やマスコミなどあっちの側が主張する「コロナウィルスワクチ推奨派」の真実。

 

片やまだまだ日本ではレジスタンスの部類ですが、「コロナウィルスワクチン疑念派」の真実。

 

コロナワクチン被害者遺族の会による集団訴訟の記者会見も開かれました。

(たぶん、日本のマスコミは報道しないんだろうけど)

 

 

 

 

真実は人の数だけあるが、事実は一つしかない。

 

あなたが信じる事実はどっち?