くどうも、すこっちです。!(^^)!
お正月も今日が三が日の最終日の1月3日。
官公庁と同じお休みの方は明日からお仕事なんですよね、職場は事務所自体が冷え込んでいるかもしれませんが、かったるい気持ちを振り切って頑張りましょうね。
今日のアタシは箱根駅伝復路の2日目のスタートもとっくに過ぎた頃に起床!
カミさんの作ったあんころ餅を一緒に食べながら、いろいろと雑談をしている時に、ふとこんな話題で盛り上がった。
「スマホが無かったら、今頃どんな生活をしていたんだろうね。」
「パソコンが無かったら、どんな生活をしていたんだろうね。」
と、ここまではスマホやパソコンの恩恵に預かっているありがたや~の会話だった。
しかし、そこから、
「でもさぁ、スマホが普及していつでもどこでもインターネットが出来るようになったから、いろんな弊害が生まれてきたんじゃないの?」
「そうだねぇ~、コミュニケーションも希薄になって、みんなスマホとにらめっこだもんね。」
と、話はどんどんデジタル文明が世にもたらした貢献よりも、アンチ貢献の方向に話が進み出した。
そうなのである、よくよく考えてみると確かにデジタル文明の申し子である、パソコンの普及とスマホの普及は人類に多大な実りをアタシたちに与えてくれた。
しかし、果たしてその2つが無かったからといって、アタシたちは不幸だったのか?面白くなかったのか?不自由だったのか?充足しない毎日に日々不満を募らせていたのか?
今日は、Y世代とZ世代には絶対に振り返れない、アタシらX世代(1960~1980年生まれ)の感性でアナログ文明とデジタル文明の端境期からの流れを振り返ってみたいと思います。
アタシが小学生の時代、自宅には緑色のダイヤル式の電話機が1台あるだけだった。なんでも、自分とこで買った電話が黒電話で電電公社(NTTの前身)からレンタルしているものが緑色だったらしい。
携帯電話なんてものはもちろん存在していないし、パソコンもあくまで一部のユーザーのものであったり、コンピューター=専門職=特別な人たちのものという印象の方が強かった。
この当時、デジタル文明の夜明けはまだまだ先の話だと誰もが思っていた。
しかし、黒船は突如として現れる。
1995年にPHSのサービスが開始され、マイクロソフトのOS Windows95が発売される。
思えば、この1995年頃からデジタル=一部の人のものから一般ピープルのものへと徐々に移り変わっていったように思う。
先日のブログに「東京ラブストーリー」を久しぶりに観たという話を書きましたけど、あの頃は確かにデジタル文明の夜明けまではあったけど、それはそれで充実していたけどなぁ~。
付き合い始めた彼女に電話をする。携帯もピッチも無いから、家の電話から電話をすることになるんですが、それでは会話が筒抜けになる。なので、テレカを持って公衆電話ボックスへと向かい、電話を掛ける。掛けるまでのドキドキ、親が出たらどう対応しようか?不安が頭をよぎりながら、無事に電話が繋がって、彼女と会話が出来たときの喜び!ほんの10分、20分のはずが延々会話が弾む。家の人の怒りが頂点に達しないうちにと、周りへの配慮も忘れずにそこそこにして切り上げる。
逆の場合はもっとテンションが上がる!なにせ、自分の自宅に彼女からの電話である。親が出たら出たで、それは「俺、彼女いるんだよ」的なアピールにもなり、自然な家族への認知につながる。
たぶん、電話を掛ける方の彼女も相当な覚悟を決めなければ、たやすいことでは無い。
今だったら、連絡が取りたければ、スマホでLINEなりショートメールなり、電話をするなり、あっという間に目的の相手と直通で連絡が取れる。そこにはダイヤルする決意も覚悟も、親への受け答えという緊張感も、長電話に遠慮するという思慮深さも、会話が出来たという感動も存在しない。
でも、それってどうなんだろうかねぇ。
考え方によっては、アナログ時代の不便さがあったから、そこに相手の気持ちや考えを想像したりすることも加味されて、人の気持ちがお互いに引き合って強まって、恋愛も友情もよりクオリティの高いものへと昇華していったようにアタシは思っている。
だが、当時あった自動車電話が進歩して携帯電話になるのは時間の問題だったはず。
それにFAXに変わる手段としてe-MAIlが普及したことを考えれば、一般社会へのPCの普及は歓迎すべきことである。
そう考えると百歩譲って、Windows(パソコン)と携帯電話はありだとしても、ひょっとしてスマートフォンというものは、無くてもよかったのでは?電話は電話のままで進化を止めておいても良かったんじゃないだろうか?
通信手段は通信手段としての機能に留めておいて、インターネットはパソコンでやる。
社会秩序の安定のために、少なくともそういう「絶対ルール」を死守しておけば、社会全体が朝から晩までスマホ中毒患者なんて事態は避けられたはず。
「わび・さび」ぐらいは残しといた方が世の中のためにはちょうどよかったのでは?
それが、アタシとカミさんの今日の正月座談会の結論である。
人類は「スマートフォンの普及」というパンドラの箱を開けてしまった。これは、スティーブ・ジョブズの大きな功績でもあると同時に多くの副反応を世に生み出してしまったのも事実である。
12月30日のブログにも書きましたが、デジタル社会は私たちが知らないところで、巧妙に多くの仕掛けをばらまいている。アタシたちはそういう地雷がばらまかれた道を注意しながら、歩かなければならない。これは、この先いつまでも付いて回る。
ここから先は、使う人が使い方に注意をして、前述した「家の人の怒りが頂点に達しないうちにと、周りへの配慮も忘れずにそこそこにして切り上げる。」というアラームを常にセットするしかない。
デジタル文明は人間の魂を吸い取る。その手法は巧妙にして緻密でいやらしい。
あなたも魂が抜き取られた抜け殻にならないように、「自分を大事に」注意してくださいね。(^^ゞ
scotch0711のmy Pick