子供は親と同じ道程を歩んでこないと、当事者意識は芽生えない? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

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どうもすこっちです。(^_^)/

 

突然ですが、初っぱなから名言を三つばかし。

 

「親の心子知らず」

(子供は親の気持ちを分かろうとはしない)

 

「親の意見となすびの花は千に一つも無駄は無い」

(なすびの花は咲いたら必ず実を付けることから、親のアドバイスには必ず意味があるんだよ、だからありがたく聞いておきなさいよ、という意味)

 

「親の意見と冷や酒はあとで効く」

(親のアドバイスはその時は意味が分かんなくても、後で必ず効果を発揮する時が来るよ、だからありがたく聞いておきなさいよ、冷や酒と一緒だよという意味)

 

昔、昔の大昔。それこそ、日本で言うところの縄文時代にもたぶんあったんでしょう、「親と子の意識のすれ違い」問題。

 

親というものは子供よりは人生経験の先輩である。

 

自分の経験上、「そっちの道に行ったら危ないよ」とか、「それはこうした方がいいよ」とか、「そういう上手い話には裏があるよ」とか、「そういうタイプの人間とは付き合わない方がいいよ」とか、「今のうちにこういう勉強をしておいた方がいいよ」とか、「貯金は大事なんだぞ」とか、ことあるごとに先回りをして、我が子に助言の押し売りをし続けてしまう。

 

しかしながら、親が子供の先行きを案じて、良かれと思って「親監督」が出している「ブロックサイン」を

子供は平然と黙殺する。(単なるサイン見落としではない)耳に届かない、打てども心に響かない、胸には刺さらない。

 

このブログをご覧のお子さんをお持ちの方は、「そうそう、そうなんだよねぇ~」ってうなづいている方もいるかもしれません。

 

別にアタシは教育の専門家でもなんでもないので、いつものように先に断っておきますが、ここからはアタシの持論なので、気に障る方があったらごめんなさい。m(_ _)m

 

確かに、自分が同じ年頃の時にさ、どう感じていたのかと言えば、「親なんてウザったくて、小言ばっかりで、自分の気持ちなんて全然分かってくれようとしない。いいじゃん、警察のお世話になったり、人様に迷惑さえ掛けなければ、とやかく言われる筋合いなど無い。これは、俺の人生だ!」ぐらいに思っていたのかもしれん。

 

でも、そういう「意識すれ違い」親子ばっかりでは無いのもまた事実。

 

例えば、東日本大震災で親御さんが亡くなられた方なんて、その後の人生をメディアが取材で追っかけていたりするけれど、発言はしっかりしているし、将来の目標なんかも定まっていたりして、進路選択や人生設計まで自分の中で考えがスッキリ消化されているように映る。

 

突然メディアなどで、意見を求められても、淡々と落ち着いた口調で自分の意見をきちんと述べられる高校生なんかを見ると、「どうやったら、こういうお子さんに育つんでしょうか?」ともし親御さんがTwitterをやられている方だったら、ダイレクトメッセージで聞いてみたくなる。(>_<)

 

でも割合から言ったら、明らかに「すれ違い族」の方が多いように思う。

 

では、どうして、こういう親と子の「思い」のすれ違いが生まれてしまうのだろうか?

 

アタシなりに考えてみた。自分のことをよーく振り返ってみた。そしたら、ある仮説に辿り着いた。

 

それは、

 

「子供は親と同じ道程を歩んでこないと、当事者意識は芽生えない」ということ。

 

どういうことかというと、自分も社会人になって、会社勤めをして、お給料を貰う立場にはなってはいたけど、実家通いだし、生活費もある程度は家に入れてはいるものの、ほとんどは親に依存していた。

それが、結婚して、家を出て、赤の他人との共同生活が始まり、生活を自力でやっていかなければ成らない立場になる。そうするとね、この時点で生まれ育った環境が違う赤の他人との共同生活が楽しいこともある反面、自重したり衝突したりすることも初めて知ることになる分けです。家計のやりくりなんていうのも、体験せざるを得なくなる。

 

ここで、なんとなく親の歩んできた道程と同じ道を共有する分けですよ、楽しさも大変さも分かち合っている感が沸いてくるんですよ。だから、自然と親に歩み寄れる、余計な雑念なんか無いフラットな状態で親と向き合える。そして、NEXTがある。ここに子供が生まれて、孫の誕生となれば、さらに同じ道程を歩むって事になる。そうなれば、お互いの「ある・ある」感のステータスはほぼほぼ一緒である。ある意味、同じ人生という戦を戦ってきた戦友みたいなもんで、距離感が縮まらないはずがない。

 

だから、相手のことも尊重するようになるし、こっちの意見ばっかをゴリ押ししたりはしなくなる。

 

結局のところ、「部屋の片付けをしろ」だの、「お給料から○万円入れろ」だの、「休みだからって昼近くまで寝てんじゃねーよ」だの、「夜更かしをし過ぎだろうが」ととやかく言ったところで、どこまでいっても他人事なのである、当事者とは思っていないのである、共通認識は生まれていないのである。

 

「体」の成長に対して、「心」の成長スピードというのはかなり遅い。たいていの人は自分が当事者になることでしか、差を詰められない生き物なのかもしれない。

 

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というビスマルクの名言があるけれど、これに当てはめればほとんどの人間は「愚者」だということになる。子供がよく口にする「経験してねーんだもん、そんなことを言われても分かる分けねーだろう」の決めゼリフは、まさに経験が無いことを正当化する反論材料なんだわね。

 

でも、それってもったいないなぁ~。(-_-;)

 

人間は想像力を働かせて、相手の気持ちに寄り添うということが出来る唯一の生き物なのに。

 

そうは言っても、「独り暮らしをしてみろよ!」ぐらいは言えたにしても、「結婚してみろよ!」とか、「子供作ってみろよ!」とはさずがに言えないよね。(後者の2つは、したくたって出来ない人もいっぱいいる)


滑走路を飛びたった飛行機が、不恰好な形でも、海に着水してでも、無事に不時着するのを管制塔から見守ることしか、私たち親には出来ない。


あーあ難しいなぁ、子供って。なんかそういう呪縛から解き放たれる日は、来るのかしら、、、。(-_-;)