楽天イーグルスの選手の背番号で振り返る「政宗事件簿 天正編」今日は「0」 | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

どうも、すこっちです。(^o^)

 

そう言えばこのブログ。ネーミングにある通り、本来は仙台城のガイドボランティアをしているアタシがガイド活動や仙台城や伊達政宗に関する情報をみなさんにお伝えするというコンセプトがそもそもお城の本丸であったような。

 

あーそれなのに、それなのに。コロナ禍のせいでガイド活動は中止を余儀なくされ、いつしかアタシの気の向くまま、思うままに筆を走らせていたのかもしれないですね。少し、反省。m(_ _)m

 

つー分けで、ちょっと二ノ丸から本丸に戻ろうと思っていたら、ふとこんなことを思い付いた。

 

題して、「楽天イーグルスの選手の背番号で振り返る"政宗事件簿」。

 

どうでしょう?楽天の選手を紹介し、政宗様の歴史も一緒に振り返れちゃうんです。

 

楽天ファンは政宗様の歴史も勉強でき、政宗ファンは楽天選手をインプットする。

果たして、今までこんなグレートなコラボ企画があったでしょうか?

 

それでは、早速第一回を初めていくとしますかね。

 

我らが伊達政宗様はなんと、70年の生涯に7つの元号を生き延びてきたのです。

 

永禄→元亀→天正→文禄→慶長→元和→寛永

 

ねっ、凄いでしょう!昭和→平成→令和のトリプル越えでいい気になっているそこのあなた!

ハッキリ言って、まだまだ政宗様の半分以下ですから。

 

まあ、今と違って元号も天皇一人に一つじゃなくて、疫病が流行ったとかその時の都合で勝手にコロコロ変えていた時代だったってこともあるにはあります。(まあ、そこには目をつぶって)

 

その中でも一番長かったのは天正と慶長の20年なのです。

 

そこで、まずは若き政宗が青年時代を過ごした「天正年間」を楽天イーグルスの選手の背番号と一緒に振り返って行きます。なので、「慶長年間」編もいずれ、やりたいと思います。

 

まずは、トップバッターは「0」の小深田選手から行くとしますかね。(^o^)

 

って、おいおい「天正0年」ってないだろうが!

 

確かにおっしゃるとおりです。

 

でもね、頑張っているレギュラークラスの小深田選手をすっ飛ばすっていうのも、さすがに気が引ける。

なので、「すこっち特例」としまして、「天正0年」=「元亀三年」ってことで、プレーを再開します!

 

小深田 大翔(こぶかた ひろと、1995年9月28日生まれ 25歳) 兵庫県佐用郡佐用町出身

 168センチ 65キロ 右投げ左打ち 内野手 2019年ドラフト1位 推定年俸3,300万円 背番号 0

 

50メートルは5秒9で、一塁までのタイムは3秒78(4秒で俊足とされる)と、足については即戦力と評される。広い守備範囲と内野であればどこでも守れる器用さが持ち味。打撃については内角を苦にせず引っ張ることができ、シュアな打撃が評価されている。2020年シーズンには112試合に出場し1年目で規定打席に到達。打率2割8分8厘とリーグ6位の好成績を残した。

 

昨年はさぁ、小深チャンがいなかったら、どうなっていたんだろう?って思うぐらい、ルーキーイヤーなのに大活躍だった。いつの間にかショートのレギュラー取ってるし、監督も選手もファンも納得だもんね。

 

今年はエラーが多かったり、打撃不振でスタメン落ちがあったり(昨日のショートは茂木だった)言いたくはないけど、「2年目のジンクス」病に少々冒され気味である。

 

アタシ個人の意見としては、せっかく足も速いし、小技も出来るんだから、相手ピッチャーに嫌がられるくせ者感を磨いていって欲しいんだよなぁ~。「あー、ここで小深田かよ~」って思わせられるようになったら、もう占めたもの。それには日ハムの五十幡ぐらい、もっと盗塁数を増やさないとね~。

まだまだシーズンは序盤ですから、再浮上を期待していますよ。

 

さて、話は変わって「天正0年」こと、「元亀3年」(1572年)。

 

この時、伊達政宗様(梵天丸)は数えで6歳(満5歳)

 

比較的、世に知られている政宗様のエピソードとして、「5歳の時に疱瘡を煩い、右目を失明」というのはこの元亀3年の前の年のことになります。今で言えば、幼稚園の年長さん。さぞかし、幼心が傷ついてお辛い時期だったことでしょう。

 

政宗様における、最初の試練の時期。下町ロケットで言えば、ナカシマ工業に特許侵害で訴えられた辺り、半沢直樹で言えば、西大阪スチールの5億が焦げ付いた辺りかな。

 

もともと気弱な性格だった梵天丸少年は、右目を失明してから、さらに引っ込み思案になり、人前にもあまり出なくなった。そして、母である義姫も、弟の小次郎をかわいがり、家臣に中には「片目では、世の中のことも半分しか見えない」と陰口を叩くやつもいて、小次郎擁立側に回る者も現れた。

 

今の世の中だったら、間違いなくパワハラにモラハラに虐待だよね。ここで、お父さんの輝宗公まで見捨てていたら、たぶんアタシらの知る伊達政宗様は歴史の表舞台には上がってこなかったでしょうな。

 

そんな、ドン底の梵天丸を父輝宗は決して見捨ててはいなかった。

 

むしろ、超強力な助っ人を呼んできた。その名は、「G・T・K」。

 

「グレート・ティーチャー・虎哉 宗乙」

 

彼こそ、恵林寺の名僧であり、「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」で有名な快川紹喜に師事した

禅宗のエリート中のエリート。

 

彼が最初に着手したのが、閉ざされた梵天丸の「心」の回復に務めたこと。

 

ただ単に好待遇で迎えられたからって、よーいどんで学問を教え始めるんじゃ無くて、マイナスの位置まで落ちていた彼の「心」を「0」かプラスの位置まで引き上げる。そうしてから、学問を教えてあげれば、スポンジに水がしみこむように吸収出来るって、分かってたのかもね。

 

この時に虎哉和尚が語った話が、アタシもガイド説明の時に使っている唐の時代に隻眼だったけど、活躍した中国の「李克用」の話。この話に共鳴したのかどうかは定かではありませんが、梵天丸こと政宗少年は自分の境遇を李克用に重ね合わせて、奮起したと言われています。

 

元亀三年は政宗様にとっては、生涯の師と巡り会った重要なターニングポイントだったんですね。

 

ちなみにこの年、あの有名な「三方原の戦い」が12月22日に行われている。

 

さて、いかがだったでしょうか?

今日の楽天イーグルスの選手の背番号で振り返る「政宗事件簿 天正編」

 

小深チャンにも早いとこ、コンディションをマイナスから「0」に戻して欲しーです!(^o^)

 

さて、次回は背番号「1」。と言えば、あのリリーフエースの登場です。