政宗様を陰で支えた隠密「黒脚絆組」は実在したのか? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

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どうも、すこっちです。(^O^)/

 

久々に伊達武将隊の支倉さんが主催する「はせくらないと」に行ってきた。

 

私の場合、仕事が終わってから会場の仙台中心部に夜7時まで駆け付けるというのは、渋滞との戦いであり、なかなかしんどいものがある。でも、テーマが興味深いものであるときは、参加するようにしている。なぜなら、仙台城ガイドとして、気になるネタは拾えるうちに拾っておきたいと思いがあるからである。

ガイド活動は休止中ではありますが、来る再開に向けて爪を研いでおくに越したことはない。

 

んでもって、今回のテーマはあの「黒脚絆組(くろはばきぐみ)についてである。

これは興味津々なネタではないですか!行かない分けには参りません。

 

知らない方のために簡単に説明をしますと、昔の戦国武将は単純に力任せに戦を仕掛けていた分けではありません。戦に勝つには敵国の情報を常日頃から探っておく必要があります。なんだったら、嘘の情報を流して相手をかく乱したり、自分の味方に引き入れ易くしたりします。戦が始まっても、敵陣に潜入して情報収集を行うスパイ的存在、それが「隠密」と言われる存在です。

 

隠密と言えば、「忍者ハットリ君」という藤子不二雄先生の代表作がありましたけど、あのモデルとなった徳川家康に仕えた服部半蔵は伊賀の忍びの棟梁でしたし、近江の国の甲賀というのも有名ですよね。

 

そう、我らが伊達政宗様には立派な隠密が存在した、それが「黒脚絆組」なのです。

 

「隠密」っていうと、アタシらアラフィフ世代はどうしても、水戸黄門の風車の弥七的な存在を連想してしまいます。あんなに格好良くって、ずば抜けた身体能力を持ったヤツがいたのか?

 

本日の支倉さんの講義によれば、「黒脚絆組」が存在したのは事実のようです。実際に明和7年(1770年)の伊達秘鑑や19世紀にかかれた「老人伝聞記」に「黒脚絆組」について詳細な記述が残っています。

 

じゃあ、その姿がどんなだったのかというと実際には忍者のような身なりなんかはしておりませんで、修験者や山伏、虚無僧や商人、百姓の姿をしていたのだそうです。そりゃあ、そうだよね。そんな目立つ格好をしていたら、間違いなく怪しまれますもん。

 

大体30人~50人が一組となっていて、百姓から忍びに憧れ、刀に覚えのある者を選りすぐったと記載してあるので、一応オーディションは行われていたらしいです。仙台にある芭蕉の辻。ここは虚無僧として政宗様に仕えた「芭蕉」からその名が付けられたという説があるんだけど、その「芭蕉」も「黒脚絆組」というか、諜報員の一人だったのかもしれません

 

この「黒脚絆組」の活躍が「伊達秘鑑」には、人取り橋の戦いの際に敵方の連合軍に忍び入り、様々な流言(嘘の情報ね)を言い触らしたと書かれている。また、「木村右衛門覚書」には、天正16年の郡山合戦の時に、片倉小十郎と松川与助が「くろはばきのもの」を引き連れて佐竹の陣所に忍び入ったり、天正17年の摺上原の戦いでは、政宗様から敵陣にある橋を「くろはばきのもの」に申しつけて、焼き落とせという任務を課せられたりしている。(実際に、この橋を焼き落として敵軍は川に落とされたりしたそうな)

 

やはりいつの世も裏方さん、縁の下の力持ちの存在は欠かせないってことなんですかね。

 

あれっ?そういえば、どこかの国のトップは裏方さんである官僚を人事で牛耳っいい気になっていたら、結果的に裏方も好き勝手をやっていたところを週刊誌にすっぱ抜かれてグダグダになってしまったってニュースが世間を騒がせていたような、、、。

 

表もだめなら、裏もだめ。オセロはオールブラックスで全滅ってか。(-_-;)

 

オセロの勝つコツは最初は相手に好きなように取らせて、自分は真ん中付近にわずかに石を残しておく。相手が取りすぎて置き場が無くなってきたところで、残しておいた諜報部隊と切り込み部隊が挟み撃ちにして一気に逆転勝利。終わってみれば、圧勝!

 

こんな勝負のセオリーをどこかの国のリーダーも学んで欲しいものですよ。