どうも、すこっちです。(^o^)
ふと気が付けば、このブログ。コロナ禍でガイド活動が無いもんで、最近はアタシの日常や感じたことを主に書き続けて来ていましたね。だけど、肝心の伊達政宗様や仙台城に関することをしばらく書いていない。さすがに、これは良くない。っていうか、程度問題だよね。(-_-;)
と言うわけで、大変お待たせ致しました~。今回はアタシが参加したはせくらナイトから仕入れたネタとして、伊達政宗様と魚釣りと題して書きたいと思います。
政宗様が生まれたのは、今の山形県米沢市。米沢ですから、当然海は無い。内陸の領地内で「釣り」と言ったら、もっぱら「川狩」(川猟)と呼ばれる川釣りが主だった。
米沢時代の記録、伊達天正日記に寄れば、天正15年(1587年)頃には鮒(ふな)、ハヤ、カジカ、コハダ、鱒(ます)、鮎、ヤマメ、鮭などを捕っていたとの記録がある。鮒に至っては、米沢城下の堀や屋敷内の池で釣っていたようで、時には家臣から献上された活きのいい鮒をそのまま池に放したりもしていたんだそうです。(あとで、気が向いたときに釣るのかな?)
ハヤ、カジカ、鱒、鮎、ヤマメなどは米沢城近郊の館山城近くの小樽川(思面川)などで捕っていたようです。んじゃあ、漁獲方法は?普通に釣り竿で釣るのかい?と思うでしょ。いえいえ、一応年齢は若くてもお殿様(当主)ですからね、そんなちまちまと釣り糸を垂れてなんてやらないんです。
漁獲方法には主に4つありました。
1つ目は、鵜飼い。まあ、今でも長良川とか木曽川でやっているよね。「鵜」という鳥を利用して魚を捕流方法。まあ、自分は観てればいいんだから、簡単手間いらずだわね。
2つ目は網を使う。まあ、これも一般的と言えば一般的な方法だね。あらかじめ魚の来そうなところに網を仕掛けておいて魚をGET!若しくは網で一気に一網打尽って感じかな。これも、自分は手を汚さないパターンってか。
3つ目は川の水量を少なくする。これは、川の流れの緩やかなところを石でせき止めたりなんかして、川の水量を少なくして、手掴みする。これは、さすがにアクティブ!政宗様も水に入らなきゃ出来ないわね。
4つ目がちょっと汚い!というのか戦略的というのか「毒流し」という方法。これは別に川に毒を流すという分けでは無くて、山椒(小粒でもピリリと辛いやつね)の粉末を川に流し、それが魚の体内に入るとしびれて動けなくなる。そのタイミングを見計らってお魚チャンを捕獲するという方法なのです。
こんな感じで川魚を捕獲して楽しんでいた(当時、20歳?)政宗様だったんですが、いつもお魚がGET出来たと言うわけでも無い。(魚に上様もなにも関係ないからね)伊達天正日記によると、ある日魚獲りが得意な家臣を連れて、川に行ったんだけど残念ながらその日はボーズ(魚が一匹も捕れないこと)。悔しくてリベンジしに同じ場所に行ったけど、その日もお魚チャンに翻弄される政宗様!しょうがないっていうんで、リーサルウェポン(最終兵器)の「鵜」を連れてきて、根こそぎGET!(出たな!権力者特有の強引なやり口)ってなこともあったようです。
そんなのどかな魚獲り(っていうか、川遊びだわね)も政宗様が仙台城に移ってからは、そりゃあ海ありますから、三陸で獲れるありとあらゆる海の幸を堪能されたようですよ。慶長十年代の手紙には、「正月も半ばを過ぎたというのに鱈が町中に出回ってないじゃないか!漁師が出荷を抑えているのか?庶民が困るだろうに、なんとかせい!」みたいなことを指示している。
そうかと思うと、角田の石川家に嫁いだ次女の牟宇姫に、「鮎のなれずしを送ったから、悪くならないうちに食べなさい」という手紙を書いている。(鮮魚は傷みやすいからね)
ちなみに、水遊びが大好きな政宗様は天正17年(1589年)に5月23日に亘理で人生初の海遊びに興じているそうな。
伊達家の正月料理には大好きな海の幸ががふんだんにラインナップされている。
ふのり・こんぶ・のしあわび・串あわび・にしん・くしこ・鮭氷頭・このわた・ほや・赤貝・伊勢エビ・鱈・鮭・鯉・いか・かつお・鮭子籠・鮒・石焼(鯨)・かまぼこ・なまこ・数の子・からすみといった具合です。
このブログをご覧で、県外から仙台にお越しの際には是非とも豊富で新鮮な三陸の海の幸をご堪能ください。(あーでも、観光地価格じゃないところの方が実はオススメですけどね)(^_^)