仙台城の「エアガイド」(仮想ガイド)をやります! | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

どうも、すこっちです。(^o^)

 

エアギターというのをご存じだろうか?

 

このワードはちゃーんとウィキペディアにも掲載されおりまして、「ギターの弾き真似。大げさな演奏する身振りと、しばしば実際の口パクによって構成される。有名なところでは漫才コンビダイノジの大地洋輔が2006年と2007年の世界大会で優勝したのをご存じの方もいるでしょう。プロレスラーの棚橋弘至が試合に勝ったときに行うパフォーマンスとしても有名だ。

 

このエアギターがきっかけとなり、「エア○○」という言葉も頻繁に使われるようになった。

 

コロナウィルスが世界を席巻し、日本も見事に緊急事態宣言発動だ。外出は出来ないし、繁華街へも行けない(っていうか、今度は営業自粛要請と来たもんだ)県境を越えての移動もはばかられ、旅行なんて行けるのはあの「ワーストレディ」悪鬼ー(アッキー)ぐらいでしょうな。(-_-;)

 

(日本の場合、周りから白い目で見られる村八分感の方が怖いかも、、、。)

 

アタシのもう一つの顔である仙台城ガイドも「STAY HOME」規制の前にあっては、無期限の活動停止。世の中のアクティブな行動に対するマホトーンの封じ込め効果は最大限に効きっ放しである。

 

もう、こうなったらね、やれること、出来ることをやるしかない。

 

そこでアタシが考えたのが、このブログ上で仙台城の「エアガイド」(仮想ガイド)をやってみたいと思うんです。

 

「えっ?そんなことをしたら、ブログを見た人はもう仙台城に興味を示さなくなるのでは?」

 

いえいえ、そんな心配はいりません。仙台城の魅力は無限大!語り尽くせませんから。

 

大事なことは、多くの人に仙台城や伊達政宗に興味を持ってもらい、それを持ち続けてもらうこと。

 

今は実際に仙台城を訪れることも、生のボランティアガイドさんのお話を聞くことも出来ないけれど、「すこっちがブログで書いていた仙台城って面白そうだな、行ってみたいな」っていう好奇心が頭の片隅にでも残ってくれれば、それでいいんです。

 

「コロナウィルス終息宣言」が発表され(されんのかな?)、晴れて、仙台に足を運べる日が来たときに、頭の片隅からその「仙台城の好奇心」という名の記憶を引っ張り出してもらいたいのです。

 

そんなきっかけにして頂ける日を信じて、あくまでもすこっち流の切り口で、コンパクトなガイドをしていきたいと思いま~す。(^_^)/

 

第1回目は広瀬川について、それではエアガイドの始まり、始まり~。

 

仙台と言えば、仙台城。仙台城と言えば広瀬川。「広瀬川 流れる岸辺 思い出は 帰らず~♪」で始まる「青葉城恋歌」https://www.youtube.com/watch?v=u-GYBCktieU

 

この曲が1978年(昭和53年)さとう宗幸さんのメジャーデビュー曲として発表されたのが5月5日。この38日後の6月12日に「宮城県沖地震」が起きてしまう。悲嘆にくれた宮城県民の応援ソングとしてこの曲はヒットし、110万枚を売り上げ、彼は日本レコード大賞の最優秀新人賞を獲得し、紅白歌合戦にも出場。

(彼はのちに、大河ドラマ「独眼竜政宗」で支倉常長役を演じる)

 

仙台城の外堀のお役目も立派に果たしていた全国区の「広瀬川」。普段はアタシと同じでとっても大人しい清流広瀬川が昨年の台風19号の影響で、水かさがどんどん増水!あわや、氾濫、決壊の一歩手間までいったのですよ。

 

   

 

危なかったね~、普段はこんな感じなんですよ。

 

 

 

この川はウン千年を掛けて山を削り、高い方から低いところへと蛇のように移動して、今の位置にある。仙台という街が5つの段丘(台原段丘、青葉山段丘、上町段丘、中町段丘、下町段丘)からなる河岸段丘(階段みたいな街)であることは「仙台平野」と呼ばれているために、意外と知られていない。

 

 

多くの歴史の目撃者だった広瀬川。旧石器時代には川の周辺に多くの遺跡があったり、源頼朝の軍勢が陸奥国に信仰してきた時には奥州藤原氏がここに防衛戦を張ったという記録が「吾妻鏡」に出てくる。

南北朝時代には「広瀬川の戦い」という戦があったんだとか。

 

仙台城を築城する上でも、この広瀬川は大きな役割を果たした。

 

当時の建物は当然木造。建てるには大量の材木が必要だった分けで、切り出した材木を水運を利用して運んでいたんですね。江戸時代には名取川上流で伐採された丸太を広瀬川に運び入れ、藩が家臣に支給して薪や炭にしていたそうです。(もらって持ち帰るの大変そう)

 

伊達政宗の狙いとしては、仮に城下町が攻められたとしても、広瀬川の対岸から仙台城の本丸を眺めた敵の軍勢は、「あらら~この川を越えて攻め込むの?ちょっと無理じゃね。」って戦意喪失効果を期待していたのかもしれませんね。これぞまさに「戦わずして勝つ」、「無形の力」だったのかな。

 

秋には芋煮会で賑わう広瀬川。

 

アナタも蛇のような広瀬川の流れをたどって、歴史のロマンを感じてみませんか?

 

あーそうそう、来るときは「青葉城恋歌」をきちんと覚えて来てね。(^^ゞ