どうも、すこっちです。(^^ゞ
現在、宮城県には2016年に市の仲間入りをした「富谷市」を含め、14の「市」がある。
しかし、明治、大正、そして昭和7年まで宮城県では「市」と名乗っていたのは、恥ずかしながら「仙台市」1つしかなかった。さすがは、江戸時代からの城下町。仙台は明治22年(1889年)から市を名乗っている。(仙台89ner'sの89は1889から取っている)
昭和8年の4月1日に北上川の内陸水運と太平洋岸海運の拠点だった石巻がようやっと宮城県の2つ目の「市」として産声を上げる。
それから宮城県は、ずーっと仙台と石巻の「2大都市」体制で県としての根幹を成してきた。考えてみれば、県北の石巻と県南寄りの仙台ということで上手くバランスが保たれていたのかもしれない。
ここで、当時の仙台市長渋谷徳三郎が目を付けたのが「塩竈」。塩竈は昭和16年に県内3番目の市になった。塩竈神社の門前町として栄え、鉄道開通後は目覚ましい発展を遂げ、仙台市の外港として港町としての隆盛も著しかった。
そんな塩竈市を含めた近隣市町村を合併して、仙台市をもっとビッグな街にしようと思った渋谷市長の案件は後任の今村市長にも引き継がれたのだが、昭和20年の太平洋戦争の終結によってご破算となってしまった。(-_-;)
もはや戦後では無い。高度経済成長の波に乗って、昭和33年には名取市が県内4番目の「市」となる。
昭和39年3月3日に仙塩地区を含む仙台湾地区が新産業都市(お国のお墨付きで発展させてあげる=お金を落としてあげるってこと)に指定された。
ここで仙台市が、かつて立ち消えになった野望である「合併論議」を再燃させる。実に北は松島から南は岩沼市までを巻き込んだ「広域合併議論」が始まった。これを「仙塩合併」と呼ぶ。しかし、合併協議の回を追うごとに参加する自治体は次から次へと「やあーめた!」と抜けていく。(仙台市は上から目線だったんでしょうなあ、たぶん)
そうして、最終的に残ったのが塩竈・多賀城・利府・仙台・名取の5市町村。
このままめでたく「新仙台市」誕生か!と誰もが思った。
ここで、「本能寺の変」ぐらいにあり得ない出来事が発生する。
昭和42年にな、なあんと多賀城町長が合併調印式の前日に、まさかの合併批判を発言してくれちゃいまして、「あーやめた、合併なんかやーめた」と自爆テロ、突然の離脱表明。空中分解した仙塩合併話はあっという間に水の泡と消えてしまったのです。(>_<)
あー、恨めしや~。私の住む多賀城市もひょっとしたら、「仙台市」になっていたのかも。
そうしたら、アタシもフツーに「仙台市民」を名乗っていた、という分けなんですよね。
おいおい、当時の多賀城町長さんよ!なにしてくれてんのよ!
しかも、調印式の直前に「やーめた」って、あり得なくない?やめたきゃ、もっと早く言ってよって。
仙台市の面目丸つぶれじゃんかよ。(多賀城町長の身に一体なにが?)
かくして、離脱した多賀城町は昭和46年に市制施行。
その後、仙台市と合併を模索した市町村はどうなったのか?
合併を諦めきれない仙台市は仙台のベッドタウンとして急速な発展を遂げていた「泉市」や「秋保町」、「宮城町」などを吸収して、見事「政令指定都市」の称号を獲得する。
多賀城市は市として独り立ちし、仙台と塩竈の狭間で境界線がよー分からん存在感の薄いベッドタウンと言われ続けて来たが、起死回生の「TSUTAYA図書館」が出来てからは、駅前も格好が付いた感じで
良い雰囲気を醸し出すようになった。
利府町に至っては、新幹線車両基地から上がる莫大な固定資産税のお陰で町は発展!イオンにMOVIXにグランディなど主要施設は何でも揃っていて、今では県内で随一の恵まれた「町」であり、存在感もうなぎ登りである。(これも、多賀城のお陰だよ!利府町民は多賀城に足を向けて寝れないかんね)
歴史にたらればは無いと言いますが、果たして合併をしなくて多賀城市は幸せだったのか?それとも、合併をしたらしたで、そこには違う幸せがあったのか?
いずれにしても、9回2アウトからバッター「多賀城」に逆転ホームランを打たれたピッチャー「仙台」さんはさぞ、悔しかったことでしょうなあ~。(-_-;)
すこっちは当時はまだ生まれていないんで、詳しいことは分かりませんが、知っている方に当時のこと、聞いてみたいと思う、今日この頃です。