豊臣政権崩壊の引き金はブレーンの「早死」? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

どうも、すこっちです。!(^^)!

 

歴史というものは昔、教科書で覚えた擦り込みの知識が疑うことなくそのまんまインプットされて現在に至っているという人が多い。(まー別に細かく調べる機会も無いですからね)

 

今日はそんな思い込みの歴史認識を改めてみましょう。

 

豊臣秀吉が日ノ本(日本のことね)を統一した。天正18年(1590年)のことでした。この時、豊臣政権の有名な政治機構と言えば、「五大老」と「五奉行」だね。「五大老」に名前を連ねたのが、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝。五奉行と言えば、石田三成・浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家の5人。まあ、「五大老」が大臣クラスのキングメーカーとすれば、「五奉行」は官僚のトップといったところでしょうか。

 

「五大老」のトップの徳川家康と「五奉行」のトップ?の石田三成が関ヶ原の戦いを起こす分けなんだけど、実はこの「豊臣政権」。これは、これで上手く回っていたのです。しかし、歯車がかみ合わなくなった大きな誤算が次から次へと訪れた。

 

その一つが優れたブレーンの度重なる死、なのです。

 

会津を治めていて、会津若松城を築城し、伊達政宗とも争った(セキレイの花押の話ね)蒲生氏郷。彼はあの織田信長にみそめられて、娘婿となった。勇猛な武将でもあり、文化人としても千利休の高弟の一人でもあり、有能な経営手腕を持っていた。彼だったら、秀吉政権のブレーンとして十分に辣腕を振うことが出来たはず、あーそれなのに彼40歳の若さでこの世を去ってしまう。

 

そして、もう一人が彼の実の弟である豊臣秀長だ。天下の№2として甥で後の関白の秀次との仲を上手く取り持っていたのも実は秀長。彼が享年54歳で亡くなってから、「秀次事件」に「朝鮮出兵」、「秀頼溺愛」等々、もはやネジが飛んでしまったような悪行三昧ばっかりの秀吉になっていったからね。

 

最後に忘れてならないのが、小早川隆景だ。毛利元就の息子で「毛利の両川」と呼ばれたうちの1人なんだけど、この人が実に優秀だったのよね。秀吉も絶大な信頼を寄せていた。なんつったって、1588年には秀吉から「羽柴」の名字と「豊臣」の本姓まで下賜されている。(これは、破格の待遇だよ)

 

そして、これは意外と知られていないんですが、先に述べた「五大老」。実は、小早川隆景もちゃあんと「五大老」に名を連ねていた。しかし、彼が1597年享年65歳でこの世を去ってしまう。そこで、「五大老」の一枠が空いてしまったため、繰り上げで「上杉景勝」が就任したという分けなのです。

 

あーそうそう、秀吉の亡くなった後だけど、前田利家も亡くなってしまうのね。

 

まあ、優秀なブレーンが居ようが居まいが、そもそもピラミッドの頂点に立っている秀吉がちゃんとした人格者であれば、政権運営も上手く行っていたのかもしれないし、別に自分の息子(疑惑ですけどね)にこだわらずに、最後は家康に禅譲すれば良かったんじゃないの?って思うんですけどね。

 

小さなピラミッドも大きなピラミッドも、支えている基礎や地盤がしっかりしていないから崩れる的なことをよく言われるけれど、本当のところは違うんだよね。大事なのはピラミッドの頂点なのですって。!(^^)!