「伊達政宗」って本当はなんて呼ばれていたのだろう? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

どうも、すこっちです。!(^^)!

 

落語なんかで「枕」というのがあります。落語の本篇に入る前に、お客さんをウォーミングアップさせるような感じの導入部分なんですけど、昔はこの話の「枕」はこれというふうに「枕」も決められていたんだそうです。これだと、なんか今一つ「味」が足りない気がしますよね。

 

この「枕」に、最近の話題なんかを持ってくるようになったのは、あの「立川談志」なんだとか。

今では、当たり前に思えるようなことも、必ず「予定調和」に風穴を空ける人がいて、今がある。

 

私のブログも冒頭は最近のネタに触れる話を書くようにしていますが、実はこれは「談志イズム」だったんですね~。!(^^)!

 

さて、昨日は「○○守」に触れてみましたが、ここでまた一つ素朴な疑問が生じます。

 

果たして、我らが「伊達政宗」が生きた安土桃山時代~徳川幕府の江戸時代。いったい、彼は本当はどんな呼ばれ方をしていたのか?まさか、「政宗さま~」とか露骨に名前で呼ばれるなんてはずはない。

 

ここには、明治以来~現代の「苗字+名前」という単純ではない呼び方が存在していました。

 

伊達政宗を例にあげてみましょう。

 

「伊達藤次郎藤原朝臣政宗」

 

伊達(名字)+藤次郎(仮名けみょう)+藤原(氏うじ)+朝臣(姓かばね)+政宗(諱いみな)

 

昔の人たちは名前を呼ぶことを「忌み嫌った」事から「諱(いみな)と言うのは「忌み名」が語源となっています。だから、大事な自分の名前であって、「政宗」とは呼んでくれるのは、親ぐらいという、まあ時代が時代だととっても妙な感じだったのです。

 

なので、親以外の人(妻や兄弟)が本人を呼ぶときは、「仮名」の「藤次郎様」と呼んでいたんだと思われます。

 

家臣が呼ぶときは、若い時は「藤次郎様」だったかもしれませんし、一般的には「お館様」、「上様」、「殿」

と呼んでいたと思われます。

 

また、オフィシャル(公的な場面)では、受領名や官職を前面に出して呼ぶのが一般的でした。

 

だから、彼の場合だと「伊達陸奥守殿」(最初は越前守ね)か「伊達権中納言殿」と呼ばれていたと思ってたんですが、よくよく調べてみると彼は徳川家康から「あんた、よくやってくれるから特別に「松平」の姓を名乗ってもいいよ。」というお墨付きをもらっている。

 

なので、「松平陸奥守殿」か「松平権中納言殿」が正解のようです。

 

よく、「関ヶ原の戦い」の場面なんかで、石田三成のことを「じぶしょう」治部少と言ったりしますし、徳川家康のことを「内府殿」と言ったしていますよね。

 

ちなみに、氏が「藤原」となっていますが、政宗はあの「大化の改新」で有名な中臣鎌足(のちに藤原)の子孫なので、「藤原」を名乗っているのです。「源平藤橘」というルールがありまして、分かり易く言うと、この名字の家の人しか関白・摂政・征夷大将軍には成ることが出来ないというルールでした。

 

秀吉は当然、「源平藤橘」とは縁もゆかりも無い家柄だったので、無理くり「近衛前久」の養子にしてもらって「藤原」の氏を得て、「関白」になったのね。そんでもって、この「源平藤橘」とは別に「豊臣」という姓をあらたに作ってもらったと言う分けなんです。(だから、名字は生涯「羽柴」のまんまなのです)

 

ねっ? こうして名前や呼び方も深く掘りさえげて行くと、なかなか面白いでしょ!(^o^)

 

そうなんです、ガイドはいつ、どんなことを聞かれてもそれなりの回答が出来るように準備をして置かないといけない。それに、何よりこういう「学校の先生の脱線話」みたいな方が実は本筋よりも面白く感じたりすることってあるでしょ!?つまりは、そういう「脱線話」もしっかりと仕込んでおくというのも、ガイドの個性というか魅力につながるんではないかと、私は思っています。

 

ぜひ、仙台城に「脱線話」を聞きに来てください。(あんまし、脱線話ばっかりというのもね~。(-_-;))