そもそも、「○○の守(かみ)」ってなんなんだろう? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
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どうも、すこっちです。!(^^)!

 

大河ドラマなどを拝見していて、前から気になっていたことなのですがこの「○○の守」という呼び名。

ポピュラーなところで言うと、「大岡越前守忠相」ね。この人は江戸町奉行だったけど、越前の国とは縁もゆかりもないんだけれど、「越前守」だった。

 

我らが伊達政宗も伊達62万石の仙台藩祖となってからは、「陸奥守」だったけど、その前は大河ドラマ「真田丸」をご覧になっていた方はご存知かもしれませんが、「越前守政宗」だった。

 

そう言えば、「おんな城主直虎」で「政次ロス」で話題になった小野政次は「但馬守」だったような。

 

いったいぜんたい、この「守」ってなんなんだろう?

 

はい、はい、はい調べましたよ~。それでは、その疑問に答えて参りましょう。(^o^)

 

そもそも、これって、日本の律令制度の地方に派遣される国司の位なんですね。

 

トップが「守」(かみ)、次が「介」(すけ)以下、掾(じょう)、目(さかん)と呼びます。

朝廷も最初のうちは、ちゃんと「守」を任命して、その地に赴任をしていた。だから、「○○守」で

すんなりと役目もはっきりしていたし、何の問題もなかったのです。

 

しかし、桓武天皇の辺りからやたらと、皇族や貴族も増え、だんだんと与える官職が不足していった。

 

仕方が無いので、当時86あった日本の旧地名ごとの官職である「守」を手当たり次第に分け与えて行ったというわけなんです。

 

これも、辛うじて朝廷のコントロールが効いたのは鎌倉時代ぐらいまででした。

 

室町時代以降は、お金で官職を買う時代となり、「○○守」はもはや地位や名誉のブランド名になっていったのでありました。

 

ちなみに、伊達政宗は本当は「陸奥守」がすんなり欲しかったのです。(そりゃあ、地元だからね~)

 

しかし、当時「陸奥守」というのは、島津氏が独占していました。

 

これも、ある意味納得の理由なのですが、この国司が赴任した先が自分の出身地や領国だったりすると、その土地の関係者と癒着をして悪いことをする可能性があるということで、ジモティーじゃない人が「○○守」を拝命するという暗黙のルールがありました。

 

「陸奥国」はほかの国の3倍以上の「大国」です。そんなに簡単に陸奥守にはなれなかったのです。

実は、この「守」ですが、大名の実力と言うかランクによって、名乗ることが出来る「国」が決まっていたのです。

 

ちなみに、大大名だけが名乗ることが出来る大国は13か国しかなかった。

 

大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・

肥後国の13なのですが、このうち上総国と常陸国と上野国の3国は「親王任国」と言って、「親王」

つまり、天皇の息子や娘しか赴任できない国なんですね。

 

ってえことは、一般人は13-3だから10か国の「守」しか名乗れなかった。

(なので、上総介(信長)とか上野介(吉良や小栗)って名乗っていたのは、「守」は親王でなれないからその下の「介」を名乗っていたというわけなのね)

 

秀吉的には、ちょうど大国の越前守が空いていたので、政宗に与えたという分けなのです。

 

徳川家康の時代になってからは、「なんか、分かりづらいからそういうのやめにしませんか?」

というツルの一声で、国持ち大名とそれに準ずる大名に関しては、○○守を独占してもいいよ!と言う特例が認められるようになって、めでたく「伊達藤次郎陸奥守藤原朝臣政宗」と名乗れるようになったというわけなのです。 良かったね~。よっ!「陸奥守」殿!! 

 

皆さんも今度から「大河ドラマ」や「時代劇」で○○守が出てきたら、注目です!その武将や登場人物ののランクが分かるかもしれませんよ。!(^^)!