仙台城本丸取り壊しに関するエピソード | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

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「仙台城跡」。今となっては、伊達政宗の騎馬像だけが目立っている感があります。

それ以外の遺構と言えば、う~ん石垣でしょうかね。

 

だけど、仙台城にもちゃ~んとお城はあった。

 

実は仙台城って本丸と二の丸と三の丸から構成されていたんですけど、

もっぱらまつりごと(政治の事ね)をする中心は二の丸だった。

(だって、政宗様があんまり堅牢な本丸を作ったので平時には向かなかったんです)

 

明治維新になり、「廃城令」が1873年(明治6年)に発布され、日本全国にあったお城が

風前のともしびにさらされたわけだけど、そこで「存城」と「廃城」に分けられた。

 

仙台城、実は「存城」処分だった。

 

つまり、最初から「廃城」というレッテルを貼られた分けではなかったんです。

しかし、先に述べたように中心は二の丸だったから、二の丸の跡地を陸軍の第二師団の

駐留場所として有効活用され、本丸はあんまり重要視はされていなかったんだろうね。

 

そこで、こんな動きになってしまう。

 

仙台の榴ヶ岡(仙台サンプラザがあるあたり)に陸軍の歩兵第四連隊の兵舎を作ることに

なったのです。

 

そこで、こんなやりとりが、、、。

 

「兵舎作ることになったけど、建築資材が足りないなあ~。どうしようか?」

 

「あーそうだ!確か、使っていない本丸御殿を取り壊して、それを転用したらどう?」

 

「そうか、その手があったよね!うん、うん、そうしよう再利用 リユースだよ!」

 

当時、文化財として土地や建物を保存しようといる思考よりも、強い軍隊を作るために

軍ありきの考え方が優先されていたんでしょうね、なんとも皮肉な話です。

 

こうして、仙台城の本丸にあった建築物は取り壊され、一部は兵舎の資材に用いられた。

明治5年~7年頃に破却されたと言われています。

 

明治9年6月26日、明治天皇が奥羽巡幸の途中、仙台城を訪れました。

当時の県令(今の県知事ね)宮城時亮に明治天皇が尋ねたそうです。

 

「仙台城は名城と聞いたが、その後どうなったか?」

 

しかし、その時はすでに取り壊されていた仙台城、本丸。

 

明治天皇が天守台から仙台市街を一望し、取り壊しの経過を聞いて一言

「あやまちなり。」と嘆かれたのだそうです。

 

おいおい、遅いよ!明治天皇さん!

 

もうちっと早く来て、仙台城の遺構保存に鶴の一声かけて欲しかったなあ~。(>_<)

 

なんならドクのデロリアンで取り壊し前に連れて行ってあげるのだが、、、。

(バック・トウー・ザ・フューチャーを知らない人、ごめんなさいm(__)m)

 

まあ、でも現存12天守の生き残りのエピソードもずいぶんとラッキーに次ぐラッキーが

重なったのと、保存に尽力された方がいたから残ったみたいだし。

 

今となっては、残された遺構から城の素晴らしさをめでる。

そういう奥ゆかし~い、思考の持ち主になりましょう!(^○^)