1938年正月の杭州
以前のエントリで顧維均演説を引用した際、気になっていた点がありました。
http://ameblo.jp/scopedog/entry-10054903709.html
演説はこれ(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070620/p2
の Stiffmuscle さんのコメントから)
「Another authentic account of the atrocities perpetrated by Japanese soldiers at Nanking and Hangchow based on the reports and letters of American professors and missionaries is to be found in the Daily Telegraph and Morning Post of January 28th, 1938. The number of Chinese civilians slaughtered at Nanking by Japanese was estimated at 20,000, while thousands of women, including young girls, were outraged. 」国際連盟理事会関係1件第11巻、(1938/2/18資料作成)
気になったのはNankinではなく、Hangchow(杭州)の件。
日中戦争については勉強が浅く、杭州が上海戦後に南京攻略と前後して日本軍に占領されたことくらいしか知らなかったので、「杭州での残虐行為」については、これが自分にとって初見でした(どっかで見たような気はするのだが・・・)。
で、どうしても、この時期・この地域での日本軍の残虐行為というと、まず南京事件が挙げられるので、それ以外というのがなかなか目に付きにくいような気がします。
あと、この前古本屋で買った本に、「杭州での残虐行為」と思われる記述があったので取り上げようと思った次第。
「戦記甲府連隊」(昭和53年1978)P312-P313
津田部隊の主力が、風光の地杭州で昭和十三年の新年を祝っているころ、第五中隊の将兵は、道路偵察隊としてトラックで杭州湾海岸ぞいに、道路状況の調査と破損箇所の応急修理、残敵掃討を実施していた。
道路も比較的よく、残敵もほとんどみかけなかったが、金山衛と奉賢城の中間付近のある部落で、コンクリートのヘイに囲まれた白カベの兵営らしい建て物を発見した。でてきた主人格らしい男の案内で、小倉隼太中尉以下将兵が内部の捜索を行なうことになった。
入り口の正面に中国の国旗である青天白日旗と孫文の肖像が掲げてあり、二階にのぼると数人の女がテーブルを囲んでコーヒーを飲んでいるばかり-敵兵らしい姿はなかった。ところがカベの戸だなを動かすと通路が現われ、その奥のへやに、敗残兵百余人がかくれており、小銃、手榴弾などもあった。ただちに捕えて全員を処分した。
ところが、その夕方、うす暗がりのなかから突然射撃をうけた。まだ、どこかにかくれていたのだ。
ただちに応戦、十数人を倒したが、小倉隊も、市川五三郎(甲府市紅梅町)桑原重成(富士吉田市明見)の両上等兵、岩間義永(御坂町金河原)一等兵ほか一人が戦死した。
津田部隊とは、第101師団麾下の歩兵第147連隊のことです。
上海での激戦に参加した後、南京攻略には向かわず杭州攻略に向かっています。杭州自体は中国軍が撤退していたため簡単に占領していますが、上海~南京~杭州に囲まれた揚子江デルタ地帯には、多くの敗残兵が残っており、津田部隊もその掃討に参加しています。
一般的な感覚として引用後半の「ただちに応戦、十数人を倒した」での中国軍犠牲者は、単純に戦死であって虐殺と言うにあたらないだろう。
問題は引用中盤の「敗残兵百余人がかくれており、小銃、手榴弾などもあった。ただちに捕えて全員を処分した。」である。戦闘などの記述が無いので、ほとんど抵抗を受けずに捕虜にしたと思われる。
そして、全員処刑した、ということであろう。
つまり、これは捕虜の虐殺にあたる。
もちろん、言い訳として現地が「その夕方、うす暗がりのなかから突然射撃をうけた。まだ、どこかにかくれていたのだ。」というくらい散発的な抵抗が収まっていない状況であったという主張がありえるが、日本軍組織の責任回避の理由にはならない。
敵の見えない戦闘の緊張から下級兵士が暴走することは当然ありうるわけだが、これを統制するのが指揮官の役割であろう。敵軍が散発的な抵抗をするから、捕虜にした後に殺してもよい、などというのは軍組織の行動としては全く認められない。
この引用文では、敗残兵の服装についての記載がないが、「かくれて」いた以上、中国軍の軍服を着ていたと推定できる(民間人の服装なら隠れる必要が無い)。つまり、いわゆる”便衣兵”ではなく、捕えた後は捕虜として扱わねばならない対象である。
こういった敗残兵狩りは、津田部隊以外でも当然行っていたと思われるし、場合によっては(匿ったなどの理由で)民間人も犠牲になったかもしれない(引用中の「主人格らしい男」やコーヒーを飲んでいた「数人の女」がどうなったかについての言及はない)。
そして、おそらくは、上海~南京~杭州の日本軍が制圧した地域一帯で同様の敗残兵狩りが行われていたのだろう。
問題が、南京城内や南京安全区に限定されない、のは言うまでもない。