645年、蘇我入鹿を殺し、その父・蝦夷を自害に追い込んだ中大兄皇子(なかのおおえのみこ、または、なかのおおえのおうじ)は、大化の改新といわれる政治改革を行い、天智天皇となる
天智天皇には両親(父・舒明天皇、母・皇極天皇)が同じ弟の大海人皇子がいた。
大海人皇子(おおあまのみこ)は兄の娘を妻としていたが、兄との関係は微妙だった。
妻・額田王(ぬかたのおおきみ)を天智に奪われたという話もある
病に倒れた天智天皇は息子の大友皇子(おおとものみこ)に皇位を譲りたいと考えていたが、大海人を警戒していた。
そこで大海人の本心を知るために、病気と偽り枕元に大海人を呼び、「自分はもう長くない。私の後を頼む」と言った
もしこのとき、大海人が「あとのことは任せてください」と答えたら、皇位を狙っているとして殺すつもりだったという
しかし、大海人は兄の魂胆をわかっていて「私にはとてもそのような能力はありません」と断った。そして、危難を避けるため出家して吉野へ逃れる。(671年)
安心した天智天皇だったが、家来から「なぜ、行かせるのですか、虎を野に放つようなものです」と言われる
翌672年、天智天皇が崩御すると、大海人は反旗を翻した。
古代日本最大の内乱・「壬申の乱」である
戦いの結果、大友皇子は自害し、勝利した大海人皇子は天皇に即位 これが天武天皇
天武天皇には息子がたくさんいた。
長男は武市皇子(たけちのみこ)
このころは生まれた順番よりも母親の身分がモノを言った。
武市の母親は身分が低かったので、皇太子にはなれない。
次は草壁皇子(くさかべのみこ)
その母親は鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)で、彼女は天智天皇の娘
母親の格としてはこれ以上のものはない。
皇太子は草壁で決まりかというと、その下の大津皇子(おおつのみこ)も母親が天智天皇の娘・太田皇女(おおたのひめみこ)
しかも、太田皇女は、鵜野讃良皇女の姉で長幼の序で太田皇女の方が格上
しかし、太田皇女は早くに亡くなっていて大津皇子には後ろ盾がなかった。
こうして、草壁が皇太子とされたが、その後いったん白紙に戻されたともいう
それだけ大津皇子が優秀だったということか
こうなると、血統の良さで遜色ない大津の存在は脅威となる
686年天武天皇が崩御した。
その翌月、大津皇子が謀反の疑いをかけられ自害する
大津皇子の謀反事件は、息子・草壁のライバルを排除したいと考えた鵜野讃良皇女により、でっち上げられた冤罪であると言われている
こうして邪魔者はいなくなった。
しかし、世間は謀反事件の黒幕は鵜野讃良皇女と見ていたので、草壁皇子がすぐに即位することはできなかった。
「ほとぼりの冷めるまで・・・」
そう考えていたが、ここで最悪の事態が起きる。大津皇子の謀反から3年
草壁皇子が27歳で亡くなってしまったのだ。
草壁皇子には、母親・鵜野讃良の妹で天智天皇の娘でもある阿閇皇女(あへのひめみこ)との間に男の子・軽皇子(かるのみこ)がいた。
草壁を失った今、鵜野讃良皇女はこの孫を天皇にすることを強く願った
しかし、これには大きな問題がある
軽皇子はまだ幼かったので、天皇になることも、その次を約束された皇太子にもなれない。このままでは他の男性皇族が天皇に即位してしまう。
そうなれば、その人の子へ孫へ皇位が継承され、軽皇子の即位の可能性はなくなる
そこで、おばあちゃんはかわいい孫のために決断した。
「私が天皇になります」
こうして誕生したのが持統天皇
697年、軽皇子が15歳になると皇位を譲り(文武天皇)、その後見役になる。
文武天皇の時に、この国の名を倭から日本に変えたとされている
鵜野讃良皇女は、男性天皇の娘つまり男系女子だから天皇に即位できたのです。