「日本がもっと早く降伏していたら、広島長崎の原爆投下はなかった。」
よくこういう意見を聞く
しかし、日本が降伏しなかったのではなく、日本を降伏させないようにアメリカが仕組んでいたのが真実である
アメリカでは戦争が始まるまで駐日大使をしていたジョセフ・グルーが国務次官になっていた。
1945年5月28日、グルーは、もし日本に降伏を呼びかけるなら、その中に天皇制存続を認める文言を入れるように進言した。しかし、「軍事的理由からそれを直ちに行うことは好ましくない」と却下された
この軍事的理由が「日本に対する原爆投下」である
降伏後の天皇制存続を認めると日本は降伏してしまう。
多額の予算を注いで開発している原爆を使うまでは、日本に降伏されては困るというわけだ
1945年7月6日、グルー国務次官は、米英ソ首脳によるポツダム会談(ただし日ソ中立条約を結んでいたソ連はポツダム宣言には署名せず代わりに中国が署名)に同行するバーンズ国務長官にポツダム宣言に天皇制存続の条項を入れるようにとのメモを渡した。
ポツダム会談の始まる前日の16日、ニューメキシコ州アラモゴードで人類史上初の原爆実験が行われた
このときのアメリカは、11月に九州南部上陸作戦を控え、さらに46年春には関東上陸作戦も計画されていた
バーンズは原爆を使用すれば、ソ連の力を借りなくても日本本土上陸作戦の前に日本を降伏に追い込める、さらにソ連をけん制し戦後世界の主導権を取れると考えた。
彼は、トルーマン大統領に、「もし、いま天皇制存続の条項をポツダム宣言に入れれば、日本が降伏してしまうかもしれない」と進言した
こうして7月26日に発表されたポツダム宣言には天皇制存続の条項は入れられなかった
27日鈴木貫太郎首相は「ポツダム宣言を黙殺する」と記者会見で表明 これが拒否と英訳されてしまう
日本が拒否したので原爆投下が実行されたと言われているが、
ポツダム宣言発表前日の25日、トルーマンは日記に「日本がポツダム宣言を受諾しないと確信している」と記していた。
日本の拒否は予定通りで、ポツダム宣言は原爆投下を正当化するためのものだった
さかのぼること3か月前の5月、アメリカは原爆投下都市を選定していた
選ばれたのは京都・広島・横浜・小倉の4都市だった。
そしてこれらの候補都市への爆撃は禁止された。
原爆の正確な威力を測定するためには、破壊されていない都市に落とす必要があったからである
その後、横浜は外され空襲された
京都は最有力目標とされたが、戦前京都を訪れたことのある陸軍長官スティムソンが反対し
京都が外され、その代わりに長崎が選ばれ、広島・小倉・新潟・長崎が候補となり、これら都市への爆撃禁止は継続される
8月2日、日本への原爆投下が正式決定される
第一目標は広島、第二目標は小倉、第三目標は長崎
6日、エノラ・ゲイと名付けられたB-29戦略爆撃機は、マリアナ諸島テニアン島を離陸し広島へ向かう
機内にはウラン型原爆「リトルボーイ」が積まれていた。
午前8時15分広島市太田川に掛かる相生橋上空で原爆が投下された。
死者11万8661人、負傷者8万2807人
爆心地近くにあった広島県産業奨励館は、爆発時の衝撃をほぼ真上から受けたため天井は吹き飛んだが壁が残った。今その建物は原爆ドームと呼ばれる。
8日、二発目の原爆投下が決定された 第一目標小倉、第ニ目標長崎
ボックス・カーと名付けられたB29はプルトニウム型原爆「ファットマン」を積み小倉へ向かった
しかし、小倉上空は雲が厚く目標が確認できなかった。
広島への原爆投下を知っていた八幡製鉄所の作業員が「敵機が少数で北上している」という情報を聞き、煙幕のために煙突から煙を出していたことも効果があった
ボックス・カーは小倉への投下をあきらめ第二目標長崎へ向かう
長崎市内も雲に覆われていたが、雲の切れ間から街が見えた一瞬をとらえ、午前10時58分2発目の原爆投下
死者約7万3900人、負傷者約7万4900人
国民はほとんどの都市が空襲されている中、空襲されない都市があることを不思議に思っていた。
そしたら、その一つの広島に新型爆弾が投下された。そこで他の爆撃を受けていない候補都市も自分たちの街が標的にされていると確信した。長崎では知事が長崎市民の疎開命令を検討していたが、間に合わなかった
新潟では10日に疎開命令が出され市民の疎開が行われた
原爆を人の住んでいる手つかずの街に落とせるのは、戦争中しか許されない。
だから、アメリカは原爆が完成するまで日本を降伏できないようにしていたのである
さらに忘れてはならないのは、この背景に白人による有色人種蔑視があったこと
今でもアメリカで人種差別から暴動が起きている
80年前はもっとひどかったのは言うまでもない