フランツ・フェルディナント大公夫妻は、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件で殺された。
この事件は必ず学校で習うが、この二人の人生はあまり知られていない。
そこには、苦難と深い愛情があった。
この二人は、オーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻と言われているが、
オーストリア・ハンガリー帝国帝位継承権者というのが正しい
なぜなら、皇帝の子供ではないからだ。
この時の皇帝は、フランツ・ヨーゼフ一世で、彼にはルドルフという息子がいた。
しかし、ルドルフ皇太子は1889年、愛人とともに謎の死を遂げる
そのため、皇帝の弟である、フランツの父・カール・ルートビッヒが帝位継承権者となった。
ところが、カールは兄より先に亡くなり、その子のフランツ・フェルディナント大公が帝位継承権者になった。このとき、フランツはまだ独身だった。
次期皇帝であるフランツの元には名門貴族や王家の娘との縁談も舞い込む
当時、フランツは、テシェン公家の別荘をたびだび訪問していた。
テシェン公妃イサベラはフランツが来るのは、自分たちの娘クリスティーナに会うためだと思っていた。
娘が皇后になれるかも・・・
ある日、フランツが懐中時計を忘れていった。当時、蓋の裏に好きな女性の肖像画を描くことが流行っていた。好奇心から蓋の裏を見たイサベラは驚く
そこには娘ではなく、自分に仕える女官ゾフィー・ホテクが描かれていたからだ。
こうして、秘められていた恋が露見する
イサベラはこのことを皇帝フランツ・ヨーゼフ一世に報告した。
皇帝は激怒する。
しかし、フランツはゾフィーとの結婚を望んだ。皇帝はじめ周囲の者は猛反対した
理由は「身分がつりあわない」
ゾフィーも貴族出身ではあった
貴族の階級は5つ 公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵(戦前の日本もこの5つ)
彼女の家は伯爵だった。3番目でも釣り合わないとされた。
ハプスブルク家では、結婚相手は王を出したことのある家と決まっていた
しかし、フランツはゾフィー以外の女性との結婚を拒否する
フランツの継母(父カールの3番目の妃)マリア・テレサは皇帝から信頼され、よき話し相手であった。
そのマリア・テレサの仲介もあって皇帝は二人の結婚を渋々認めたが、皇帝は結婚式への出席を拒否し、皇族たちにも出席を禁じた。
1900年、二人は結婚したが、ハプスブルク家から結婚式に出席したのは、マリア・テレサとその娘だけという寂しい結婚式だった
二人の結婚は「貴賤結婚」とされ、さまざまな制約を課された
ゾフィーは大公の妻なのに「大公妃」を名乗ることを許されなかった
そして、公式行事などでは夫の隣に座ることも決して許されず、ゾフィーの席は会場の端に用意された。馬車でも、劇場でも夫の隣に座ることは許されなかった
さらに子供が生まれても帝位継承権は与えられない
ゾフィーはこうした冷たい扱いを受けていたが、二人の仲は良く、子供も3人生まれた。
ゾフィーがフランツの隣に座ることが許されるのは、フランツが軍司令官の立場の時だけだった。
1914年、皇帝はフランツにボスニアで行なわれる軍事演習視察を命じた。
これはゾフィーを隣に座らせることのできる軍司令官としての公務だった。
フランツはゾフィーを伴い出発した
1914年6月ボスニアの首都サラエボ
大公夫妻は車の後部座席に二人で座っていた。そこを銃撃され二人とも亡くなる。
この時ゾフィーのお腹には4人目の命が宿っていた。
大公の最後の言葉は「ゾフィー、死んじゃいけない。子供たちのために生きなくては!!」
こう発した後、大公も意識を失った。
この日6月28日は二人の14回目の結婚記念日だった。
葬儀では二人の棺は並べて置かれていたが、ゾフィーの棺は一段低くされていた。
ハプスブルク家の人は亡くなると、カプティーナ納骨堂に埋葬されることになっているが、ゾフィーは入れないため、フランツは遺言で自分たちの居城の納骨堂に二人一緒に埋葬するよう手配していた。
これがフランツ・フェルディナント大公夫妻の物語です
なぜ、この仲睦まじい二人は殺されなければならなかったのか