対米戦争の始まりと終わりにかかわった男たち | カエサリオンと妖精たちの日々

カエサリオンと妖精たちの日々

孤高のピグ・カエサリオンが、ひょんなことで部活の部長を引き受けることになってからの、辛くもある部長としての奮闘記ブログが、部活解散後の彷徨うテスカトリポカのぐだぐだブログに変わりましたが、仲間に支えられ、再び復活したふぇありー部の紡ぎ直しの記録です!!

天皇誕生日は戦前は「天長節」と呼ばれていた。

昭和の天長節は4月29日

その日は祝賀行事が各地で行われる

 

昭和7年の4月29日 中国・上海でも天長節の祝賀行事が行われた。

 

主な出席者は

陸軍大将・白川義則(上海派遣軍司令官)

陸軍中将・植田謙吉(第9師団長)

海軍中将・野村吉三郎(第3艦隊司令長官)

 

重光葵(上海公使)

 

上海居留民団関係者

 

そこへ爆弾が投げ込まれた(上海天長節爆弾事件)

犯人は朝鮮人尹奉吉 その場で自殺を図ろうとしたが逮捕され、のち死刑

 

被害は甚大だった

白川大将は重傷を負い、翌5月26日に死亡  植田中将は左脚を失い、野村中将は右目を失明、重光公使は右脚を失った。

 

白川大将は上海派遣軍司令官に任命されるときに、昭和天皇から「上海の中国軍を撃退したら国際連盟総会が開かれる3月3日までに停戦をしてほしい」と言われ、上海の敵を一掃すると参謀本部からの追撃の指示を無視し戦闘を中止した。

連盟総会での日本への風当たりは弱まった。

天皇は「白川はよくやった」と褒めた。

 

その停戦交渉中に事件は起きた。

 

5月5日、日中間で正式に停戦協定成立

5月15日、五・一五事件発生

5月26日 白川大将死亡

 

 

野村吉三郎は昭和16年1月駐米大使となるが、日米関係は悪化し日本は経済制裁を受ける。

事態を打開し戦争を回避するためアメリカ側と交渉をするが、野村は英語が得意ではないということで、駐独大使を務めた来栖三郎が特命全権大使として交渉に加わる。

 

しかし、来栖に対してアメリカ側の反応は冷ややかだった。

というのも来栖は駐独大使時代にベルリンで行われた日独伊三国同盟調印式に日本代表として出席していたので、親ドイツ派とみられていた。

 

しかし、本人はアメリカ人を妻とし、親英米派で三国同盟には反対していた。

結局、日米交渉は実らず戦争に突入し、二人の大使は翌年帰国する。

 

来栖三郎にはアメリカ人の妻との間に息子がいた

名を来栖良という。

良は陸軍パイロットとして勤務。

しかし、昭和20年2月アメリカ艦載機の迎撃に出撃するため、乗機に向かう途中、急発進した他の戦闘機のプロペラと接触し即死した。26歳だった

 

亡くなったとき、良には扶沙子という幼い娘がいた。

 

昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ降伏した。

 

そして9月2日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦上で降伏文書調印式が行われる

東久邇内閣の外相を務める重光葵が日本政府を、梅津美治郎参謀総長が陸海軍をそれぞれ代表し署名した。

ミズーリ艦上はこの歴史的瞬間を目撃しようとする兵士たちで鈴なりの状態だった。

重光は義足を付けていたため足を引きずりゆっくりとテーブルに進んだ。

しかし、これを遅延行為と見た兵士たちからブーイングが起きたという。

 

 

 

戦後

来栖良の娘・扶沙子は中日ドラゴンズ星野仙一と結婚した。