今の日本で臥薪嘗胆などと言う行為を実行する人間はいない。また、「心頭滅却すれば火もまた涼し」なんて事を履行するのも禅宗の僧侶ぐらいである。つまりこの種の狂気は現代では死滅したわけである。これにとって代わるものとして妄想とか幻聴とかいうのが見いだされたと考えることができる。こういう言い方は乱暴なようだが、単に妄想や幻聴という症状を持ち「幻聴が聞こえます」などとおしゃべりするのではなく、この妄念に固執し謂わばこれらの妄念と心中し、本当の病気に、統合失調症に陥る人間がいる。一種の精神主義であり、「私は妄想を起こします」などとおしゃべりする連中よりは余程正常でまた健気な人なのだが、あいにくこういう健全な人間は世人のお気に召さない。おしゃべりする病人の方がよっぽど気に入られる。彼らの方が無害である、安全であると見なされるからだろう。誠実という一点において勝る精神主義的病人も、この点においては、おしゃべり連を見習うべきである。

精神科の病院には再入院という事がある。ある患者が再入院をしたいと考えて、それにはこれこれのプロセスを踏めばよいと考える。それでそのプロセスにしたがって行動してみたところで決して再入院には行き着かない。なぜなら再入院を望むといっても好んで苦痛を求める訳ではなく、再入院に何か希望を求めるか少なくとも再入院した方が利益になると考えるからである。そんな方向に再入院など待っている訳もなく、実際の再入院は必ず意表を突いてやってくる。例えば「再入院したくともさせてくれない。再入院できる方が幸運なのだ」などと言う他人の意見を聞かされる。こんな意表に出た意見は、患者にとっては、世の中何でもありだという暴力的な見解に思われるのである。散々脅かされて、頭の中が支離滅裂になった挙げ句に物質的にも患者が精神病院の中にいるという事態にいたる。芥川が書いたように人間は梢末から枯れはじめる木の様に、頭から先に参るのである。

ピアニストはアスリートだと、中村紘子は言っていたそうだ。ピアノを弾きながら物を考える余地が無いということだろうか。同じ芸術家でも画家が自分をアスリートであると言っているのはあまり聞かない。ピカソみたいに無意識に描くのではなく、意識的につまりあれこれ考えながら描くからであろう。では、音楽家の演奏はアスリート的であるとして、演奏するための準備、つまり練習はどうであろうか。練習もアスリート的に行うのであろうか。それともあれこれ考えながら練習するのだろうか。なるほど先生のレクチャーを受けるピアノの生徒は、あれこれ先生と話をしながら、つまりあれこれ考えながらレッスンを受けている。しかしこれは、すでに練習を十分にして弾けるようになった曲についてやっていることである。その曲を弾けるようになるまでに十分に行う練習とはどのように行うものか、というのが今の問題なのである。この問題を考えるには、幼少から神童教育を受けてきた様な人と、年をとってから独学でピアノを始めた人、つまりピアノを独学しようと思い立つほどピアノと無縁な生活の意識がすでに発達した人とを比較すれば良いのではないかと思う。

前者は与えられた曲をなんなく弾きこなしてゆくだろう。曲のレベルが上がるにつれて、必要なテクニックも自然に身についてゆくだろう。ところが後者では、曲を弾きこなす事とテクニックを身につけることが分離する。もっと明瞭な言い方をすれば、弾けない曲が出てくるのである。こういう人にとって一番困るのは、音楽は部分が全体を表すこと、あるいはその逆であることである。弾けないフレーズがあるから、そこだけ部分練習しようとするのだが、そんなことは容易に行えない。ある曲においてテクニックが足りている人、たやすく弾きこなせる人ほど部分練習を行うことも容易なのである。

そうすると最初に言った練習はアスリート的に行うものか、考えながら行うものかという問題も、無意味なものであることが分かる。何故ならば才能のあるピアニストは何よりも練習をする才能に恵まれているものだからである。